この時期、米国の自動車市場では、オイルショックを契機として消費者の指向がそれまでの大型車から小型車へと変化していった。そこへ、日本から上陸した小型車が「高品質、低価格」でブームを巻き起こし、日本からの輸出が急増した。

 当時、世界最大の自動車マーケットだった米国市場への日本車の進出には、それまで開拓に苦闘した先人の並々ならぬ努力があり、それが米市場の小型車指向に伴って日本車人気に結びついた側面はある。一方で、GM、フォード、クライスラーの米ビッグ3は、小型車シフトが後手に回り、業績を悪化させた。クライスラーに至っては経営危機に陥り、米連邦政府の支援を要請するほどだった。

 米市場における小型車指向への対応が遅れた米メーカーの業績悪化、経営危機の表面化によって、「日本車バッシング」はデトロイトの労働組合が端緒となり、一気に政治問題として表面化したのだ。1980年、全米自動車労組(UAW)は米国国際貿易委員会(ITC)に対して、米国の自動車産業労働者の大量失業は日本車による被害だとして、日本車の規制を求める提訴を行なった。

「日本製乗用車の対米輸出自主規制」(VER)が1981年度からスタートし、実に13年間にわたって継続されたのである。当時の日本の自動車産業は、それまでの国策に沿って産業としての発展を輸出に求める方向性から、自由経済での市場競争原理を主張しながらも国際共生の道を探る方向性へと、転換を迫られた。

実は米国車の復活を促した
自動車問題の政治的側面

 日本車対米輸出自主規制が日米政府間主導で継続されるなか、日本車各社はホンダを皮切りに、現地生産を目的としたアメリカ進出を促進した。この動きは、トヨタとGM、フォードとマツダ、クライスラーと三菱自動車といった日米合弁生産化にも結びつき、結果的に日本車対米自主規制が続くなかで、米自動車産業の復活にもつながったのである。米自動車産業が、日本式の経営管理方式・生産管理方式を吸収することで立ち直った側面もある。当時の米自動車産業の低落と復興を描いた『カムバック』という本が、米国で評判を呼んだこともある。

 つまり、日米自動車問題は政治とのかかわりの中で続いてきた歴史があるのだ。その後、1990年代末の米クライスラーと独ダイムラーの合併を引き金とする世界自動車大再編の渦中にGM、フォードや日本車各社も呑み込まれた。日本車メーカーの中で、90年代後半から業績を悪化させた日産が、仏ルノーの傘下に入ったのが、特徴的な動きである。