遊べる「外」はどこにあるか?
しかし、わたしたち親子はすぐに、遊ぶ場所に困るようになりました。
何しろニイニは図鑑に書かれたあらゆる生きものとの接触を求めていて、それに対し、近所の児童公園にはそうそう生きものがいない。セミにアリにたまにチョウが関の山です。
土をほじくりかえすと怒られるし、これはきれいに植えているものだからダメ、と草花に手を伸ばすニイニを叱らなければならないし、ドングリや落ち葉を集めるだけなんてすぐに飽きてしまいます。仕方ないから、付近で唯一野性味の残る場所、多摩川の河原に何度も何度も通いました。
そんな状況と反比例して、ニイニの知識はどんどん増え、要求は具体的かつ難易度が高くなります。「ヒラタクワガタが見たい!」と言われてもペットショップでおろおろ探して見せるしかない。さらに、「センチコガネ(牛馬の糞に棲む虹色の甲虫、)が見たい!見に行こうよママ!」とせがまれても、わたしたちの町のどこにもセンチコガネはいない。そんな日々の鬱積を夫に話すと、よし、じゃあ、今度の連休はクワガタを取りに八ヶ岳を旅行するか、などといきなり大仰なことになってしまう。
便利な都市生活の中で、何不自由なく暮らしていることに疑問ひとつ持たずに生きてきましたが、こどもを中心とした世界にとってはつまらない場所だなと、思うことが増えました。
夫は「自分の育った70年代開拓中のニュータウンは、ただのド田舎だったな。空地で駆けまわって、落とし穴掘って、ザリガニ釣って遊んでたよ。下水管の中を探検したり、基地をつくったり。今、東京で育つ子は、どこで遊ぶんだろうな。空地はないしな」と心から不思議そうに言います。
ランドセルを放り出して日が暮れるまで友達と遊ぶ空地、誰のものでもない余白のような場所があるのは「ドラえもん」の世界だけ。今の都市環境にはもう、そんな曖昧な場所はほぼ存在しません。こどもたちはといえば、乳幼児のころは近所の児童公園、小学生になれば学校の校庭を使ったり、野球チームに入って体を動かすといった遊び方をするのが一般的です。
「そうかあ。ゲームするなって言っても、他にやることがないよな。毎週末釣りに連れて行ってやったり、山に行ったりできないしな。第一、親が一緒だなんて、遊びとは言えないよ」
こどもは外で遊ぶのが一番。こんな単純な考えを掲げてみても、いざ、ニイニが遊べる「外」が、具体的にはまわりにない。大人にとっては何でも手に入り便利で自由な都心は、生きもの好きのこどもにとっては実に「なんにもないところ」です。
年端もゆかぬニイニの要求を真に受けて、遊びたい場所がないねと不憫がるのは甘やかしすぎかと思う一方で、では、東京に暮らすわたしたちは、やっぱり自然の中での子育てを諦めなければならないのだろうかと疑問が折り返してきます。
持っている生きものの図鑑をしゃぶりつくすように読みしだき、「図鑑だけじゃヤダよ、前の公園にはなんにもいないんだよ、虫取りどこでできるの?こんどはいつ釣りに行くの?ホンモノが見たいさわりたい知りたい!」という方向で好奇心が育っている子に対して、東京は便利で豊かで楽しい場所で、田舎で育った人が大人になったら出てきたがるような場所なのよ、ありがたいと思って自然遊びができないことくらい我慢しなさい、という理屈は無論通じません。
さらに言えば、ニイニが欲しがっている環境は、こどもにとって「正しい」環境ではないかという思いもあり、ニイニが生まれ落ちた場所というだけで、東京という枠内で育てることが果たして正解なのだろうかと、悶々と考えるようになりました。何か大きなものを与え損ねることにならないか、と。
(第5回に続く)