深澤 献
日本の経済史の中で、井上準之助(1869年5月6日~1932年2月9日)の行った金解禁については、評価が分かれるところだろう。

三井、三菱、住友、安田の四大財閥に次ぐ規模で、戦後はGHQによって解体対象とされた10大財閥に数えれれる古河財閥。現在も金属、電機、化学工業を中心とした企業群で古河グループ(古河三水会)を形成されている。その創始者である古河市兵衛は、渋沢栄一らの資金援助で古河鉱業(現古河機械金属)を設立。足尾(栃木県)、草蔵(新潟県)、院内(秋田県)など銅山を中心に鉱山経営を行い、財を築いた。

太平洋戦争開戦時の首相であり、戦後はA級戦犯として絞首刑に処された東条英機(1884年12月30日~1948年12月23日)。1952年5月15日発行の「ダイヤモンド」臨時増刊「日本の告白」という雑誌に、「東条英機の遺言」と題された12ページに及ぶ特集が組まれている。メインコンテンツは、タイトル通り東条の遺書である。48年12月23日の死刑執行の1時間半前、教誨師の花山信勝に託した遺言の全文が掲載されている。記事には、死刑の十数分前に手錠をかけられたまま自署した絶筆の署名も添えられている。

5月5日公開の「上」に続き、ソニー会長の出井伸之会長と経営学者のピーター・F・ドラッカー教授の対談の後半部分をお届けする。「勝ち残る経営者の条件」という対談テーマについて、ドラッカーは「これまで私が出会った優秀なリーダーは、みな後継人事に優れていた。しかし、それほど優秀でないリーダーの場合は、彼が会社を辞めた途端に組織が崩壊している。そのような例を、私は数多く見てきた」と語っている。

山崎種二(1893年12月8日~1983年8月10日)は群馬県北甘楽郡(現高崎市)に生まれ、16歳で上京、回米問屋「山繁商店」に入る。16年後に独立、米穀問屋山崎種二商店(現ヤマタネ)を設立すると、その後は米相場から株式へ進出し、莫大な財産を築いた。

起業への経緯や、その動機は人それぞれだが、共通するのは挑戦心や自分にはできるという自己肯定感。そうした思いはどのように育まれてきたのか。今回は、エレベーター内のスマートディスプレーを手掛ける株式会社東京の羅悠鴻さん。天文学者から起業家に転身した背景には、その先に見据えるとんでもなく大きな夢がありました。

「マネジメントの発明者」と称えられる経営学者のP・F・ドラッカー(1909年11月19日~2005年11月11日)教授と、ソニーの会長兼CEOの出井伸之(1937年11月22日~)。「週刊ダイヤモンド」2001年3月3日号でその2人が対談している。

「三井ドル買い」事件から35年後の「週刊ダイヤモンド」1967年10月9日号で、当時、三井銀行(現三井住友銀行)の会長として金融界現役の最長老という存在だった佐藤喜一郎が、事件の真相を語っている。貴重な日本経済史の証言だ。

武田豊(1914年1月6日~2004年2月15日)は、1981年に新日本製鐵の社長に就任、人員削減や設備集約といった合理化や、エレクトロニクス、新素材などの新規分野に経営資源を投入する事業構造の大転換に事業構造の大転換に取り組んだ人物だ。

人と違うことに挑戦し、リスクを取ってでも新しい道を行く“イノベーター”たちは、何を原体験に、どんな環境でその思いを育んできたのか。今回は、AIを使った事業売買のマッチングなどM&A仲介サービスを行うM&A総合研究所の佐上峻作さん。厳しい経営者で、経済的な援助者でもあった祖父の影響を大きく受けてきました。

前回は、1987年7月18日号に掲載された西武鉄道グループの元オーナー、堤義明のインタビューを紹介した。今回は義明の異母兄で、西武流通グループの代表を務めた堤清二(1927年3月30日~2013年11月25日)だ。義明の記事と同じく、インタビュアーは精神科医でノンフィクション作家の野田正彰。経営者の自己理解と経営思想との関連を探る「ザ・経営者」という連載企画の中の1本である。

今回は「週刊ダイヤモンド」1987年7月18日号に掲載された西武鉄道グループの元オーナー、堤義明(1934年5月29日~)のインタビューだ。堤の父父親は、一介の不動産業者から企業王国・西武の基盤を固め、衆議院議長を務めた堤康次郎である。康次郎は、2女5男をもうけたが、長男の清(元近江鉄道社長)、次男の清二(元西武百貨店社長)、三男の義明は異母兄弟。義明の生みの親である石塚恒子は康次郎の正妻ではない。そんな複雑な事情もあり、義明は小学校時代、いくつかの家庭を転々とする。

現代社会が抱える課題に、強い意志と行動力と共に向き合う若者たちは、どのように育ってきたのか。今回は環境活動家の露木志奈さん。幼稚園時代からユニークな教育環境に身を置き、高校はインドネシアのバリ島にある“世界一エコな学校”に留学。現在は地球温暖化などの環境問題について、小中高生を対象にして講演活動を続けています。

前回に続き、リコー三愛グループの創業者、市村清のインタビューである。理化学研究所の感光紙事業から派生したリコーをはじめ、婦人服販売の三愛、ショッピングセンターの西銀座デパート、結婚式場の明治記念館、航空機燃料に強い三愛石油、日本初のリース会社である日本リース、リコー時計(現リコーエレメックス)、日米コカ・コーラボトラーズ(現コカ・コーラボトリングジャパン)など、200社を超える事業を起こし、率いた。

市村清(1900年4月4日~1968年12月16日)は、高度成長期の日本産業界を代表する起業家だ。中学を中退して、佐賀の実家で育てた野菜売りをしていた市村は、16歳で地元の銀行に見習いとして採用された後、夜間大学に通いながら銀行員として取締役まで出世する。

自分にしかできないことを見つけ、強い使命感と共に、人と違う道に挑む。そんな若きイノベーターたちは、どう育ってきたのか。今回は、9歳から茶道の魅力にはまり、お茶の文化と産業の橋渡しをするべく、お茶の製造から販売、啓蒙までを一手に展開するTeaRoomの岩本涼さん。同じく幼少期から始めた空手と合わせ、「道」という概念が生き方の基礎にありました。

斯波孝四郎は、1899年に東京帝国大学工科大学造船科を卒業して三菱合資に入り、長崎造船所に27年も勤務して所長も務めた人物。1934年、航空機分野が統合されて三菱重工業が発足した際、その初代会長に就任した三菱グループの長老の一人。第2次世界大戦中の1942年、船舶、船員、造船の3部門における国家管理を行う造船統制会がつくられ、斯波は初代会長に就任した。

スケールの大きな構想を次々と打ち出して「大風呂敷」とあだ名された政治家、後藤新平(1857年7月24日~1929年4月13日)。南満州鉄道(満鉄)の初代総裁や東京市長も務め、関東大震災の際には内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の復興でも活躍した。明治から昭和の日本を支えた都市計画の第一人者である。

第55回
社会課題に果敢に向き合う若きリーダーたち。その情熱と使命感は、どのように育まれてきたのか。今回は、子供の貧困や教育格差の解決に向け、「すべての子に学びを」と訴えて学習支援と居場所支援を展開するNPO法人Learning for Allの李炯植(りひょんしぎ)代表理事。多様な経験を積むに至った転機は、小学校時代の恩師の言葉にありました。

第94回
韓国最大の財閥サムスングループは、李秉喆(イ・ビョンチョル、1910年2月12日~87年11月19日)が、38年に韓国・大邱で創業した三星商会(現サムスン物産)に端を発する。李は日本統治時代に早稲田大学政治経済学部で学んだ経験があり、日本とのつながりは深い。
