深澤 献
前回は、1987年7月18日号に掲載された西武鉄道グループの元オーナー、堤義明のインタビューを紹介した。今回は義明の異母兄で、西武流通グループの代表を務めた堤清二(1927年3月30日~2013年11月25日)だ。義明の記事と同じく、インタビュアーは精神科医でノンフィクション作家の野田正彰。経営者の自己理解と経営思想との関連を探る「ザ・経営者」という連載企画の中の1本である。

今回は「週刊ダイヤモンド」1987年7月18日号に掲載された西武鉄道グループの元オーナー、堤義明(1934年5月29日~)のインタビューだ。堤の父父親は、一介の不動産業者から企業王国・西武の基盤を固め、衆議院議長を務めた堤康次郎である。康次郎は、2女5男をもうけたが、長男の清(元近江鉄道社長)、次男の清二(元西武百貨店社長)、三男の義明は異母兄弟。義明の生みの親である石塚恒子は康次郎の正妻ではない。そんな複雑な事情もあり、義明は小学校時代、いくつかの家庭を転々とする。

現代社会が抱える課題に、強い意志と行動力と共に向き合う若者たちは、どのように育ってきたのか。今回は環境活動家の露木志奈さん。幼稚園時代からユニークな教育環境に身を置き、高校はインドネシアのバリ島にある“世界一エコな学校”に留学。現在は地球温暖化などの環境問題について、小中高生を対象にして講演活動を続けています。

前回に続き、リコー三愛グループの創業者、市村清のインタビューである。理化学研究所の感光紙事業から派生したリコーをはじめ、婦人服販売の三愛、ショッピングセンターの西銀座デパート、結婚式場の明治記念館、航空機燃料に強い三愛石油、日本初のリース会社である日本リース、リコー時計(現リコーエレメックス)、日米コカ・コーラボトラーズ(現コカ・コーラボトリングジャパン)など、200社を超える事業を起こし、率いた。

市村清(1900年4月4日~1968年12月16日)は、高度成長期の日本産業界を代表する起業家だ。中学を中退して、佐賀の実家で育てた野菜売りをしていた市村は、16歳で地元の銀行に見習いとして採用された後、夜間大学に通いながら銀行員として取締役まで出世する。

自分にしかできないことを見つけ、強い使命感と共に、人と違う道に挑む。そんな若きイノベーターたちは、どう育ってきたのか。今回は、9歳から茶道の魅力にはまり、お茶の文化と産業の橋渡しをするべく、お茶の製造から販売、啓蒙までを一手に展開するTeaRoomの岩本涼さん。同じく幼少期から始めた空手と合わせ、「道」という概念が生き方の基礎にありました。

斯波孝四郎は、1899年に東京帝国大学工科大学造船科を卒業して三菱合資に入り、長崎造船所に27年も勤務して所長も務めた人物。1934年、航空機分野が統合されて三菱重工業が発足した際、その初代会長に就任した三菱グループの長老の一人。第2次世界大戦中の1942年、船舶、船員、造船の3部門における国家管理を行う造船統制会がつくられ、斯波は初代会長に就任した。

スケールの大きな構想を次々と打ち出して「大風呂敷」とあだ名された政治家、後藤新平(1857年7月24日~1929年4月13日)。南満州鉄道(満鉄)の初代総裁や東京市長も務め、関東大震災の際には内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の復興でも活躍した。明治から昭和の日本を支えた都市計画の第一人者である。

第55回
社会課題に果敢に向き合う若きリーダーたち。その情熱と使命感は、どのように育まれてきたのか。今回は、子供の貧困や教育格差の解決に向け、「すべての子に学びを」と訴えて学習支援と居場所支援を展開するNPO法人Learning for Allの李炯植(りひょんしぎ)代表理事。多様な経験を積むに至った転機は、小学校時代の恩師の言葉にありました。

第94回
韓国最大の財閥サムスングループは、李秉喆(イ・ビョンチョル、1910年2月12日~87年11月19日)が、38年に韓国・大邱で創業した三星商会(現サムスン物産)に端を発する。李は日本統治時代に早稲田大学政治経済学部で学んだ経験があり、日本とのつながりは深い。

第93回
終戦直後の1946年、旋盤工として働きながら早稲田工手学校(現早稲田大学)で技術を学んだ樫尾忠雄(1917年11月26日~1993年3月4日)は、東京都三鷹市で顕微鏡の部品や歯車などを作る樫尾製作所を創業した。

第54回
険しくとも周りとは違う道を進む。そんな若きリーダーたちの挑戦心は、どんな原体験に支えられているのか。今回は、民間企業の社員に対し、新興国で社会課題の解決に取り組む体験プログラム「留職」を提案・提供するNPO法人クロスフィールズの代表理事、小沼大地さん。20代で創業するまでに歩んできた道は独自性に富んだものでした。

小倉昌男は、東京大学経済学部を卒業後、終戦から間もない48年にヤマト運輸に入社した。71年、父・康臣の後を継いで社長に就任。家業の延長で経営概念のまったくなかった運送業に、市場原理に基づいた経営手法を導入していく。そんな小倉が新事業として始めたのが小口貨物の特急宅配サービス「宅急便」だった。

第二次世界大戦が終わり、戦地から1000人もの社員が復員してきたときに、常々「出光興産は人間が資本だ」と言っていた出光は、「資本は帰ってきたのだ」と考えた。当時は出光自身、無一文どころか借金を背負っている身で、しかも戦前同様に石油業を続けれる保証はなかったが、1人もクビを切らないことを誓い、ラジオの修繕業から再スタートした。

第53回
自らの力で社会を変えたい――そんな情熱や使命感を抱いて挑戦する若きリーダーたちは、どのように育ってきたのか。今回は、農産物のオンライン直売所「食べチョク」を運営するビビッドガーデンの創業者、秋元里奈さん。代々、農業を営む家庭に生まれ育ったというアイデンティティーが起業に結び付くまでには紆余曲折がありました。

出光興産の創業者、出光佐三(1885年8月22日~1981年3月7日)による手記である。出光は『わが四十五年間』という自伝を1956年に著しているが、その2年前に当たる「ダイヤモンド」54年12月3日号に「理想の実現が私の仕事だ――首尾一貫の40年」と題して掲載されたものだ。

2020年12月、三菱UFJフィナンシャル・グループ傘下の三菱UFJ銀行の次期頭取に、同行常務の半沢淳一氏が昇格することが発表された(21年4月就任予定)。この人事が話題を呼んだのは、新頭取の名字が人気小説『半沢直樹』の主人公と同じなのもさることながら、副頭取と専務を抜いて常務から頭取に就任するのは同行では初めてだったからだ。「組織の三菱」といわれ、万事、組織的に動くのが三菱系企業の特徴であり、特に銀行のトップ人事に関しては、意表を突くような人選は過去にさかのぼっても珍しい。今回紹介するのは、「ダイヤモンド」1964年5月18日号に掲載された、三菱銀行(現三菱UFJ銀行)の頭取、宇佐美洵(1901年2月5日~1983年2月19日)のインタビュー。この宇佐美はまさに頭取になるべくしてなった人物だった。

第52回
社会を変えたいという強い意志と行動力を持つ若者たちは、どのように育ってきたのか。今回は日本とチェコにルーツを持つ岩澤直美さん。日本、ハンガリー、ドイツで育ち、“ハーフ”として経験してきた文化的な衝突を基に、高3で異文化理解教育に取り組むCulmony(カルモニー)を設立。多文化共生社会の実現を目指しています。

1964年10月に開かれた東京オリンピックで、選手や外国人客の宿泊、食事、接待といった“おもてなし”で采配を振るったのは、当時の帝国ホテル社長、犬丸徹三(1887年6月8日~1981年4月9日)だった。「ダイヤモンド」64年5月18日号では、開催を5カ月後に控え、犬丸がオリンピックへの準備の状況と、その後の日本に馳せる思いを語っている。

東映の実質的な創業者である大川博(1896年12月30日~1971年8月17日)。そもそも大川は、鉄道高等官(今で言うキャリア官僚)の制服に憧れ、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)を卒業し、中央大学法学部を経て鉄道省に入省した、バリバリの鉄道官僚だった。
