深澤 献
第48回
社会を変えることに使命感を覚え、新しい道を行く若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どのように育ってきたのか。LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)に特化した求人情報サービスなどを手掛けるJobRainbowの星賢人さんは、自身も自らの性的指向に悩む青春時代を過ごしました。

第79回
2019年4月1日、新日鐵住金は日本製鉄に社名を変更した。同社は粗鋼生産量で国内トップ、世界でも第3位の規模を持つ鉄鋼メーカーだが、この社名変更には、日本発祥の製鉄会社であることをグローバル市場でアピールする意気込みが込められた。一方で、同社の戦前戦後を通じた再編の歴史を知っている者には、 “先祖返り”した印象も与えたはずだ。

第78回
今週紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1962年3月5日号に掲載された、ソニーの創業者、井深大(1908年4月11日~97年12月19日)の談話記事である。井深によると、前年の1961年下期にソニーの輸出比率が48%となり、「期を通じて40%を超したことは初めて」とのこと。記事ではこうした状況を受けて、戦後に創業したソニーが海外市場をどのように攻略し、輸出型企業として成長してきたか、自らの言葉で語っている。

第47回
周りとは違うことを是とし、新しい事に挑戦する若者たち。その行動力はどのような環境で育まれてきたのか。今回は、AIと自然言語処理の技術を活用したビジネス意思決定サポートサービスを開発・運営するストックマークのCEO、林 達さん。自身の強みはリーダーシップにあると自覚し、起業とはその才能を生かす道だったと言います。

札幌農学校(現北海道大学)に学んだ山下は、同校の初代教頭ウィリアム・スミス・クラーク博士の「少年よ、大志を抱け!」という言葉に従い、開拓者精神(パイオニア・スピリット)を存分に発揮した人生を歩んだ。第2次世界大戦前、オブラートのメーカーから始まり、貿易業や中国・満州の開拓などで財を成すも、敗戦により無一文になってしまう。

第46回
周りと違うことに挑戦する若者たちは、どんな原体験に支えられ、どのように育ってきたのか。今回はオンラインキャリア相談室を運営するKakedasのCEOで、自ら立ち上げた日本ポップコーン協会会長も務める渋川駿伍さんです。小中時代にいじめられた経験が、自分だけの生き方への強いこだわりにつながっていました。

第75回
茨城県にあった日立鉱山を拠点とする久原鉱業所が、変圧器、電動機、発電機、電気機関車といった鉱山関連の機械の修理を目的に設立したのが日立製作所だ。日立鉱山で工作課長を務めていた電気技師の小平浪平が、1910年に創業した。もっとも小平は、修理にとどまらず、設備の国産化に乗り出す。そのために東京帝国大学(現東京大学)電気工学科の学生を続々と引き入れ、開発力を高めていく。さらに鉱業という枠からも飛び出し、総合電機メーカーへと歩みを進めていった。

第74回
「日本のビール王」と称される高橋龍太郎(1875年7月15日~1967年12月22日)は、愛媛県の造り酒屋に生まれ、第三高等学校(現京都大学)工学部を卒業後、1898年に朝日(アサヒ)ブランドのビールを製造する大阪麦酒に入社した。大阪麦酒は1906年に、日本麦酒(ヱビスビール)、札幌麦酒(サッポロビール)と大同合併し、大日本麦酒となる。社長となった日本麦酒出身の馬越恭平の下で、高橋はドイツ留学で学んだ醸造技術をもとに製造畑を歩んだ。

第45回
大学在学中の介護現場でのアルバイトをきっかけに、卒業後すぐに介護関連事業で起業したBlanket代表の秋本可愛さん。地方の愛情あふれる家庭で育った快活な高校生の進路は、東京の大学で“起業”という選択肢に触れ、大きく変わりました。

第73回
1980年代に入った頃、産業界では盛んに「ソフト化」という言葉が躍っていた。産業革命以降、土地や工場生産システムが経済を動かす価値の源泉だったのが、人間の頭脳や情報といった目に見えないものがあらゆる産業分野で最重要な“資源”とされるようになっていたからだ。伸び盛りのコンピューター産業でも、ソフトの市場がハードのそれを上回るようになり、「脱工業化の時代」とも呼ばれる、産業構造の転換が世界的に進みつつあった。

第72回
「週刊ダイヤモンド」1987年7月4日号に掲載された真藤恒(1910年7月2日~2003年1月26日)のインタビューである。真藤は、石川島播磨重工業(現IHI)の社長、旧日本電信電話公社(電電公社)の最期の総裁、日本電信電話(NTT)の初代社長・会長を務め、両社の企業変革を推し進めたことで知られる。現場と密着して粘り強く改良を重ねていく企業変革の手法で、「ドクター合理化」と呼ばれた。

第44回
社会を変えたいという熱い思いを胸に、強い意志と行動力で挑戦し続ける若者たちは、どのように育ってきたのか。今回は小中高生の「自らの人生を切り開く力」を育む教育プログラムを開発・運営するTimeLeapの仁禮彩香さん。起業したのは中2のとき。自立と自由を尊重する精神は幼稚園時代に培われたものでした。

第71回
1991年、バブルがはじけた経済下で始まったとインタビュー連載「バブルの教訓・ニッポンの再出発」の第2回に登場したのは、第一勧業銀行(現みずほ銀行)の頭取、宮崎邦次(30年1月15日~97年6月29日)だった。

第70回
「ダイヤモンド」1956年6月23日号に掲載された鮎川義介(1880年11月6日〜1967年2月13日)のインタビューである。第二次世界大戦前に、日立製作所、日産自動車、日本鉱業(現ENEOSグループ)、日立造船、日本水産など141社、12万人の従業員を雇用する日産コンツェルンを一代で築き上げた起業家だ。

第43回
リスクを取ってでも人と違う道を行く――。イノベーターとして活躍する若きリーダーたちは、どう育ってきたのか。今回は、大学在学中にコーヒーの魅力に取り付かれ、コーヒー店の経営者兼バリスタとして、産地や作り手によって異なる素材の味を楽しむ新しいコーヒー文化を伝える活動のほか、オフィス向けのコーヒーサービス「WORC」を展開する川野優馬さんです。

第68回
「近代日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一。91年の生涯で、500社以上の企業設立に関与し、600以上の福祉や教育などの社会事業に携わった。今回紹介する諸井恒平(1862年6月23日~1941年2月14日)も、渋沢に縁の深い経営者の一人だ。

第42回
人とは違う新しいことに挑戦する若者たち。その行動力はどのような環境で育まれてきたのか。今回は、ユーザーが自身の“遊び体験”を投稿し共有するメディア「PLAYLIFE」を運営する佐藤タイチさん。スパイと音楽家になるという夢から、“本当にやりたいこと”にたどり着くまで、波乱に富んだエピソードが満載でした。

第67回
今回は、いつもとは趣向を変えて、インタビュー記事ではなく、創業間もないトヨタ自動車の取材記事をお届けする。豊田佐吉が創業した豊田自動織機の社内に「自動車部」が設けられたのは1933年のこと。35年に自動車製造を開始し、37年にはトヨタ自動車工業として独立した。その翌年に掲載された、ダイヤモンド社創業者、石山賢吉による同社の取材記だ。

第66回
野村證券をいわゆる“株屋”から金融機関へと転換させた功労者は、3代目社長の奥村綱雄と、その後を継いだ瀬川美能留の2人といえるだろう。

第41回
リスクを恐れず、人とは違う新しいことに挑戦する若者たち。そのモチベーションはどのように育まれてきたのか。今回は、心のケアを必要とする人々向けの、臨床心理士によるオンラインメンタル相談サービス「リミー(Reme)」の事業責任者を務める近藤雄太郎さん。幼なじみで初恋の人でもあった女の子が、中学時代に自殺したことが原体験となっているそうです。
