後藤は1902年に米国を視察し、近い将来、この国が世界覇権を握る強大な国家になると確信する。新大陸である米国に対し、ユーラシアの旧大陸は一体となって対抗すべきという「新旧大陸対峙論」を展開するようになった。
06年に満鉄の総裁となった後藤が、新旧大陸対峙論に基づいて重視したのは、強引に満州での権益確保に走るのではなく、日露戦争で戦ったロシア帝国との関係修復だった。
そこで09年、日本の韓国統監府初代統監だった伊藤博文を、北満州のハルビンでロシアの蔵相ウラジーミル・ココツォフと非公式に引き合わせ、満州・朝鮮問題について友好裏に会談させようとした。ところが、伊藤は会談の直前に同地で韓国の独立運動家、安重根に暗殺される。後藤はさぞ無念だっただろう。
「ダイヤモンド」1926年6月1日号に後藤の談話記事が掲載されている。「伊藤博文公が在世の当時から、私は公と志を同じくして、かしこくも明治大帝の勅命を受け、満州の経綸(国家の秩序を治めととのえること)を行ったのも、実はこれによってわが国の大使命たる太平洋政策の樹立、東西文明の融合を試み、そして世界平和に貢献しようと考えたからである」と、記事内でも伊藤とは志は同じだったことを強調している。
さて、後藤が満鉄総裁時代に接触したロシア帝国は、17年のロシア革命で崩壊。社会主義・共産主義を掲げるソビエト連邦(ソ連)が誕生した。その後も後藤は引き続き、持論を追求する。当時の日本の政治家には、ロシアの赤化(共産主義化)を危惧する向きが多く、右翼勢力からの反発も強かったが、後藤は日露関係の正常化を推し進めた。とりわけ、日本からの移民とロシア国民の共働によって、豊かな天然資源を持つ満蒙・シベリアを開拓していくべきだと訴えた。記事中でも「日本の農民と露国の農民とが、共同して数個の農村をつくり、同じ農具を用いて同じ土地を耕すのである」と、共同生活に根差した日露親交に期待を寄せている。
この記事から3年後の29年4月、後藤は脳溢血で急逝するが、その遺志は受け継がれ、日中戦争のさなかの41年に、相互不可侵などを取り決めた日ソ中立条約が結ばれた。ただし、第2次世界大戦の最終盤である45年8月8日、ソ連は突如、条約を破棄して日本に宣戦布告。2発の原爆と共に終戦の決め手となった。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
人口増加という課題を
国家的な見地から「利用」すべし
人口問題は時代の叫びである。わが国の人口が、年々75万人ずつ増加していくという事実に対して、多くの者は、日本の生産条件が貧弱であることを唯一の理由として慢性的な悲観説を立てている。
限りある領土の内に、限りない人口増加の勢いが続けば、その増加率に比例した大いなるはけ口の見いだされぬ限り、しょせん、わが国は人口の洪水に襲われることであろう。故にできうる限り増加人口のはけ口を求めて、これを救済せよと彼らは主張する。