深澤 献
2005年末に大林組、清水建設、鹿島、大成建設の大手ゼネコン4社は「談合決別」を宣言した。しかしその後も、大手4社に対する課徴金が課せられた案件としては、名古屋市営地下鉄(07年)、防衛施設庁の土木工事(07年)、北陸新幹線(14年)、東日本大震災の舗装復旧工事(16年)、リニア中央新幹線(20年)などがある。

1980年代後半の日本は、85年のプラザ合意以降、円高が急速に進行したにもかかわらず、貿易黒字が巨額になっており、双子の赤字に苦しむ米国だけでなく、世界経済にとって脅威となっていた。そんな状況下、中曽根康弘内閣が設置した私的諮問機関「国際協調のための経済構造調整研究会」により、86年の春に報告書が発表された。座長である元日本銀行総裁、前川春雄(1911年2月6日~1989年9月22日)の名を取った通称「前川レポート」だ。

「週刊ダイヤモンド」1987年4月11日号から始まった連載企画「ザ・経営者」は、戦後の産業社会を形成した経営者へのインタビューを通して、その人間性とビジネス哲学の両面から経営者のトータルな人間像を探求しようというものだった。第1回は、ダイエー(現イオン)創業者の中内功。

今回は、「週刊ダイヤモンド」1994年8月27日号に掲載された佐々木正のインタビューを紹介する。89年からシャープでは顧問に退き、94年5月に国際基盤材料研究所(ICMR)を設立したばかりのタイミングだ。

河合良成(1886年5月10日~1970年5月14日)は、官僚から財界、政界に転じ、戦前戦後の激動期を生き抜いた男だ。今回の記事は、「ダイヤモンド」1963年5月20日号に掲載された河合のインタビューである。ちょうどこの号は、ダイヤモンド誌の創刊50年に当たるため、日本経済と財界の50年を、自身の半生と共に振り返ってもらっている。

今回紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1984年2月25日号に掲載された、日本電信電話公社総裁の真藤恒(しんとう ひさし、1910年7月2日~2003年1月26日)と、当時外務省調査企画部長だった岡崎久彦(1930年4月8日~2014年10月26日)の対談だ。

3回に分けて紹介した福沢桃介のインタビュー。福沢が自ら、相場師時代の一攫千金のエピソードから電力事業などでの実業家に転じた後の成功譚を披露してきた。「下」では、大同電力で行った米国での外債発行の思い出話が中心となる。

前回に続き、福沢桃介自身による回顧記事だ。相場師として日露戦争後の株式相場で財を成した後、その資金を元手に実業の世界に転身するが、そのときに共同出資者として白羽の矢を立てたのは、三菱財閥の3代目総帥、岩崎久弥である。岩崎は桃介が養父、福沢諭吉の勧めで米国留学していたときに知り合った仲だった。

福沢桃介(1868年8月13日~1938年2月15日)は、慶應義塾在学中にその美男ぶりから福沢諭吉の妻・錦と次女・房に見初められ、婿養子として福沢家に入った。もっとも諭吉には4人の息子がいたため家督を継ぐ必要もなく、伸び伸びと才覚を発揮することができた。

米ボストン・コンサルティング・グループ日本支社代表のジェームス・C・アベグレンは、1958年にダイヤモンド社から刊行されベストセラーになった著書『日本の経営』において、「終身雇用」「年功序列」「企業内組合」といった日本企業の特徴を世界に紹介した人物だ。戦後日本の発展はこうした「日本的経営」にあったと喝破し、注目を浴びた。

鉄道省の官僚だった大川博(1896年12月30日~1971年8月17日)は、東京横浜電鉄(現東急電鉄)の五島慶太に見込まれ、1942年に東急に入社する。統制部長兼総務局次長として、大川の言葉を借りると「傍系事業の統括担当」を務めた。五島の“影武者”として京王電鉄との合併などで活躍し、約60社の傍系会社を誕生させたという。

加納久朗(1886年8月1日~1963年2月21日)は、東京帝国大学を卒業後、横浜正金銀行(後の東京銀行で現三菱UFJ銀行)に入行し、国際金融畑で活躍した人物。戦後は多くの事業会社の経営に携わり、1955年に日本住宅公団の初代総裁に就任する。54年に成立した鳩山内閣は、大都市地域において年間42万戸の住宅建設目標を掲げており、それを実現するのがミッションである。

コロナ禍から世界経済が回復に向かい、原油の需要増が見込まれていたところに、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が勃発。ロシアからの原油供給が途絶する懸念が生じ、原油価格が高騰している。石油は日本の一次エネルギー供給の約4割を占めるが、その約99.7%を輸入に依存しているだけに、打撃は大きい。ところで、かつてサウジアラビアとクウェートに石油利権を持ち、実際に油田開発に成功した日本企業がある。アラビア石油である。

日本電産が2022年4月21日、会長の永守重信(1944年8月28日~)が最高経営責任者(CEO)に復帰すると発表した。日産自動車の副最高執行責任者(COO)だった関潤をCEOに据えて、自らは会長に退き、課題だった「後継者不在問題」にめどが付いたように見えたが、今回も失敗に終わった。

今回は、単なるインタビュー記事ではなく、東京通信工業(現ソニーグループ)に関するレポート記事をご紹介しよう。「ダイヤモンド」1955年7月21日号に掲載されたもので、筆者はダイヤモンド社の創業者で当時社長の石山賢吉だ。ある日、石山の下に井深大(1908年4月11日~1997年12月19日)が訪ねてくる。当時、井深は47歳。東通工を創業して9年目のことである。ダイヤモンド誌にとっては、これがソニーの初出記事と言える。

万代順四郎(1883年6月25日~1959年3月28日)は岡山の農家の生まれ。苦学して青山学院大学を卒業すると、1907年三井銀行に入行した。今回の記事は「ダイヤモンド」1955年12月5日号に掲載された、万代とダイヤモンド社の創業者・石山賢吉の対談である。

日本がバブル景気に沸いた1980年代後半、まさにそのさなかの「週刊ダイヤモンド」1989年1月7日号で、経済団体連合会会長の斎藤英四郎(1911年11月22日~2002年4月22日)と、日本商工会議所会頭の石川六郎(1925年11月5日~2005年12月14日)という、財界トップの2人が対談をしている。

ドラッグストアチェーンの国内最大手マツモトキヨシの創業者である松本清が、千葉県松戸市小金に個人薬局「松本薬舗」を開業したのは1932年のこと。当初は商品を豊富に仕入れることができず、陳列棚が殺風景だったため、あえて空き箱を並べスペースを埋めた。この箱ごと陳列するスタイルは、現在の多くのドラッグストアに継承されている。

今回紹介する記事は、「ダイヤモンド」1965年8月2日号に掲載された、土光敏夫(1896年9月15日~1988年8月4日)のインタビューである。土光は石川島重工業(現IHI)社長を経て、この年に経営難に陥っていた東京芝浦電気(現東芝)の社長に招かれたばかりである。

高島屋のルーツは、近江国高島郡(現滋賀県高島市)に生まれた飯田儀兵衛が京都に起こした米穀商「高島屋」にある。“高島”は人名ではなく、地名に由来しているのだ。今回紹介する飯田直次郎(1884年~1952年)は、3代新七の長男。直次郎以降、新七を名乗る伝統は途絶えたが、飯田本家の当主に当たる。
