深澤 献
第51回
リスクを取ってでも人と違う道に挑む。そんな若きイノベーターたちは、どんな環境で育ってきたのか。今回は、一流講師からオンラインでレッスンを受けられる音楽教室「フォニム」を運営する宍戸光達さん。高校に入学するまではピアニストを目指していたそうです。その挑戦心はどう養われ、変化してきたのでしょうか。

東映の実質的な創業者である大川博(1896年12月30日~1971年8月17日)。そもそも大川は、鉄道高等官(今で言うキャリア官僚)の制服に憧れ、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)を卒業し、中央大学法学部を経て鉄道省に入省した、バリバリの鉄道官僚だった。

第2次世界大戦後の焼け野原から日本を世界第2位の経済大国にまで押し上げた高度成長期は、1970年代に入って曲がり角を迎えた。71年のドルショックによって金・ドル交換停止と日本に対する輸入課徴金の導入、円切り上げ・完全変動相場制への移行が進み、73年と79年の石油危機によって高度成長の前提条件だった原燃料の大量安価使用というモデルが崩壊する。公害問題の高まりで企業の社会的責任が問われるようにもなった。

鈴木貞一(1888年12月16日~1989年7月15日)は、第二次世界大戦における日米開戦に深く関与した人物の一人だ。陸軍中将だが純然たる軍事畑の職歴は少なく「背広を着た軍人」の異名を持つ鈴木は、1941年4月、第2次近衛文麿内閣で企画院総裁に就任する。企画院というのは、戦争遂行上の物資動員計画を立てる役割を担う機関である。鈴木は、開戦直前の御前会議において、日本の経済力、軍事力に関する分析結果を上程し、天皇に対米開戦を進言した。

第50回
自分にしかできないことを見つけ、情熱を注ぐ若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられているのか。今回は、父親の失読症をきっかけに、文字を代わりに読み上げる眼鏡「オトングラス」を開発した島影圭佑さん。自らが抱える課題に、自らが“作ること”で寄り添う「当事者兼作り手」を生み出す活動にも取り組んでいます。

関本忠弘(1926年11月14日~2007年11月11日)は1980年からNEC社長を14年務めた。NECは長く、日本電信電話公社(現NTT)に依存する電話交換機メーカーとして、“電電ファミリー”の一角を占める企業だったが、関本は前社長の小林宏治が提唱する「C&C」(Computer & Communication)路線を継承し、コンピュータ、半導体、通信機などの総合電機メーカーの世界的企業に飛躍させた。

伊藤忠商事と丸紅という二つの総合商社の基となる呉服商「紅忠」を創業した初代伊藤忠兵衛の次男、2代目伊藤忠兵衛は、1951年1月から9月にかけて、毎号財界の重鎮を招く対談連載を「ダイヤモンド」誌に持っていた。1951年4月11日号で対談相手に招かれたのは、第一生命社長から東芝の社長に転じたばかりの石坂泰三である。

第49回
リスクを取ってでも、人と違う道を行くことを選ぶ若きリーダーたちは、何を原体験に、どう育ってきたのか。今回は、外泊するほど家賃が安くなる住居「unito(ユニット)」を展開する近藤佑太朗さん。両親とも教師という家庭に育ち、「人生を楽しむために、楽しいことをしてお金を稼ぎたい」という思いを持ち続けたそうです。

元通商産業省の官僚にして、作家、評論家として活躍、経済企画庁長官として政治の世界でも存在感を発揮した堺屋太一(1935年7月13日~2019年2月8日)。1985年12月28日号(86年の新年号に当たる)の「週刊ダイヤモンド」には、「“知価革命”と新経営者像」と題された堺屋の談話記事が掲載されている。

丸田芳郎(1914年12月16日~2006年5月30日)は、71年から19年間、花王の社長を務めた。「ビオレ」「バブ」「メリーズ」「アタック」「エコナ・クッキングオイル」などのヒット商品を次々に発売。さらに「ソフィーナ」で化粧品事業にも進出し、花王をトイレタリーで国内1位、化粧品では国内2位の企業に育てた。花王石鹸から花王に社名を変更し、業容も規模も飛躍させた“中興の祖”と呼ばれている。

第48回
社会を変えることに使命感を覚え、新しい道を行く若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられ、どのように育ってきたのか。LGBT(レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダー)に特化した求人情報サービスなどを手掛けるJobRainbowの星賢人さんは、自身も自らの性的指向に悩む青春時代を過ごしました。

第79回
2019年4月1日、新日鐵住金は日本製鉄に社名を変更した。同社は粗鋼生産量で国内トップ、世界でも第3位の規模を持つ鉄鋼メーカーだが、この社名変更には、日本発祥の製鉄会社であることをグローバル市場でアピールする意気込みが込められた。一方で、同社の戦前戦後を通じた再編の歴史を知っている者には、 “先祖返り”した印象も与えたはずだ。

第78回
今週紹介するのは、「週刊ダイヤモンド」1962年3月5日号に掲載された、ソニーの創業者、井深大(1908年4月11日~97年12月19日)の談話記事である。井深によると、前年の1961年下期にソニーの輸出比率が48%となり、「期を通じて40%を超したことは初めて」とのこと。記事ではこうした状況を受けて、戦後に創業したソニーが海外市場をどのように攻略し、輸出型企業として成長してきたか、自らの言葉で語っている。

第47回
周りとは違うことを是とし、新しい事に挑戦する若者たち。その行動力はどのような環境で育まれてきたのか。今回は、AIと自然言語処理の技術を活用したビジネス意思決定サポートサービスを開発・運営するストックマークのCEO、林 達さん。自身の強みはリーダーシップにあると自覚し、起業とはその才能を生かす道だったと言います。

札幌農学校(現北海道大学)に学んだ山下は、同校の初代教頭ウィリアム・スミス・クラーク博士の「少年よ、大志を抱け!」という言葉に従い、開拓者精神(パイオニア・スピリット)を存分に発揮した人生を歩んだ。第2次世界大戦前、オブラートのメーカーから始まり、貿易業や中国・満州の開拓などで財を成すも、敗戦により無一文になってしまう。

第46回
周りと違うことに挑戦する若者たちは、どんな原体験に支えられ、どのように育ってきたのか。今回はオンラインキャリア相談室を運営するKakedasのCEOで、自ら立ち上げた日本ポップコーン協会会長も務める渋川駿伍さんです。小中時代にいじめられた経験が、自分だけの生き方への強いこだわりにつながっていました。

第75回
茨城県にあった日立鉱山を拠点とする久原鉱業所が、変圧器、電動機、発電機、電気機関車といった鉱山関連の機械の修理を目的に設立したのが日立製作所だ。日立鉱山で工作課長を務めていた電気技師の小平浪平が、1910年に創業した。もっとも小平は、修理にとどまらず、設備の国産化に乗り出す。そのために東京帝国大学(現東京大学)電気工学科の学生を続々と引き入れ、開発力を高めていく。さらに鉱業という枠からも飛び出し、総合電機メーカーへと歩みを進めていった。

第74回
「日本のビール王」と称される高橋龍太郎(1875年7月15日~1967年12月22日)は、愛媛県の造り酒屋に生まれ、第三高等学校(現京都大学)工学部を卒業後、1898年に朝日(アサヒ)ブランドのビールを製造する大阪麦酒に入社した。大阪麦酒は1906年に、日本麦酒(ヱビスビール)、札幌麦酒(サッポロビール)と大同合併し、大日本麦酒となる。社長となった日本麦酒出身の馬越恭平の下で、高橋はドイツ留学で学んだ醸造技術をもとに製造畑を歩んだ。

第45回
大学在学中の介護現場でのアルバイトをきっかけに、卒業後すぐに介護関連事業で起業したBlanket代表の秋本可愛さん。地方の愛情あふれる家庭で育った快活な高校生の進路は、東京の大学で“起業”という選択肢に触れ、大きく変わりました。

第73回
1980年代に入った頃、産業界では盛んに「ソフト化」という言葉が躍っていた。産業革命以降、土地や工場生産システムが経済を動かす価値の源泉だったのが、人間の頭脳や情報といった目に見えないものがあらゆる産業分野で最重要な“資源”とされるようになっていたからだ。伸び盛りのコンピューター産業でも、ソフトの市場がハードのそれを上回るようになり、「脱工業化の時代」とも呼ばれる、産業構造の転換が世界的に進みつつあった。
