深澤 献
第93回
終戦直後の1946年、旋盤工として働きながら早稲田工手学校(現早稲田大学)で技術を学んだ樫尾忠雄(1917年11月26日~1993年3月4日)は、東京都三鷹市で顕微鏡の部品や歯車などを作る樫尾製作所を創業した。

第54回
険しくとも周りとは違う道を進む。そんな若きリーダーたちの挑戦心は、どんな原体験に支えられているのか。今回は、民間企業の社員に対し、新興国で社会課題の解決に取り組む体験プログラム「留職」を提案・提供するNPO法人クロスフィールズの代表理事、小沼大地さん。20代で創業するまでに歩んできた道は独自性に富んだものでした。

小倉昌男は、東京大学経済学部を卒業後、終戦から間もない48年にヤマト運輸に入社した。71年、父・康臣の後を継いで社長に就任。家業の延長で経営概念のまったくなかった運送業に、市場原理に基づいた経営手法を導入していく。そんな小倉が新事業として始めたのが小口貨物の特急宅配サービス「宅急便」だった。

第二次世界大戦が終わり、戦地から1000人もの社員が復員してきたときに、常々「出光興産は人間が資本だ」と言っていた出光は、「資本は帰ってきたのだ」と考えた。当時は出光自身、無一文どころか借金を背負っている身で、しかも戦前同様に石油業を続けれる保証はなかったが、1人もクビを切らないことを誓い、ラジオの修繕業から再スタートした。

第53回
自らの力で社会を変えたい――そんな情熱や使命感を抱いて挑戦する若きリーダーたちは、どのように育ってきたのか。今回は、農産物のオンライン直売所「食べチョク」を運営するビビッドガーデンの創業者、秋元里奈さん。代々、農業を営む家庭に生まれ育ったというアイデンティティーが起業に結び付くまでには紆余曲折がありました。

出光興産の創業者、出光佐三(1885年8月22日~1981年3月7日)による手記である。出光は『わが四十五年間』という自伝を1956年に著しているが、その2年前に当たる「ダイヤモンド」54年12月3日号に「理想の実現が私の仕事だ――首尾一貫の40年」と題して掲載されたものだ。

2020年12月、三菱UFJフィナンシャル・グループ傘下の三菱UFJ銀行の次期頭取に、同行常務の半沢淳一氏が昇格することが発表された(21年4月就任予定)。この人事が話題を呼んだのは、新頭取の名字が人気小説『半沢直樹』の主人公と同じなのもさることながら、副頭取と専務を抜いて常務から頭取に就任するのは同行では初めてだったからだ。「組織の三菱」といわれ、万事、組織的に動くのが三菱系企業の特徴であり、特に銀行のトップ人事に関しては、意表を突くような人選は過去にさかのぼっても珍しい。今回紹介するのは、「ダイヤモンド」1964年5月18日号に掲載された、三菱銀行(現三菱UFJ銀行)の頭取、宇佐美洵(1901年2月5日~1983年2月19日)のインタビュー。この宇佐美はまさに頭取になるべくしてなった人物だった。

第52回
社会を変えたいという強い意志と行動力を持つ若者たちは、どのように育ってきたのか。今回は日本とチェコにルーツを持つ岩澤直美さん。日本、ハンガリー、ドイツで育ち、“ハーフ”として経験してきた文化的な衝突を基に、高3で異文化理解教育に取り組むCulmony(カルモニー)を設立。多文化共生社会の実現を目指しています。

1964年10月に開かれた東京オリンピックで、選手や外国人客の宿泊、食事、接待といった“おもてなし”で采配を振るったのは、当時の帝国ホテル社長、犬丸徹三(1887年6月8日~1981年4月9日)だった。「ダイヤモンド」64年5月18日号では、開催を5カ月後に控え、犬丸がオリンピックへの準備の状況と、その後の日本に馳せる思いを語っている。

東映の実質的な創業者である大川博(1896年12月30日~1971年8月17日)。そもそも大川は、鉄道高等官(今で言うキャリア官僚)の制服に憧れ、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)を卒業し、中央大学法学部を経て鉄道省に入省した、バリバリの鉄道官僚だった。

第51回
リスクを取ってでも人と違う道に挑む。そんな若きイノベーターたちは、どんな環境で育ってきたのか。今回は、一流講師からオンラインでレッスンを受けられる音楽教室「フォニム」を運営する宍戸光達さん。高校に入学するまではピアニストを目指していたそうです。その挑戦心はどう養われ、変化してきたのでしょうか。

東映の実質的な創業者である大川博(1896年12月30日~1971年8月17日)。そもそも大川は、鉄道高等官(今で言うキャリア官僚)の制服に憧れ、岩倉鉄道学校(現岩倉高等学校)を卒業し、中央大学法学部を経て鉄道省に入省した、バリバリの鉄道官僚だった。

第2次世界大戦後の焼け野原から日本を世界第2位の経済大国にまで押し上げた高度成長期は、1970年代に入って曲がり角を迎えた。71年のドルショックによって金・ドル交換停止と日本に対する輸入課徴金の導入、円切り上げ・完全変動相場制への移行が進み、73年と79年の石油危機によって高度成長の前提条件だった原燃料の大量安価使用というモデルが崩壊する。公害問題の高まりで企業の社会的責任が問われるようにもなった。

鈴木貞一(1888年12月16日~1989年7月15日)は、第二次世界大戦における日米開戦に深く関与した人物の一人だ。陸軍中将だが純然たる軍事畑の職歴は少なく「背広を着た軍人」の異名を持つ鈴木は、1941年4月、第2次近衛文麿内閣で企画院総裁に就任する。企画院というのは、戦争遂行上の物資動員計画を立てる役割を担う機関である。鈴木は、開戦直前の御前会議において、日本の経済力、軍事力に関する分析結果を上程し、天皇に対米開戦を進言した。

第50回
自分にしかできないことを見つけ、情熱を注ぐ若きリーダーたちは、どんな原体験に支えられているのか。今回は、父親の失読症をきっかけに、文字を代わりに読み上げる眼鏡「オトングラス」を開発した島影圭佑さん。自らが抱える課題に、自らが“作ること”で寄り添う「当事者兼作り手」を生み出す活動にも取り組んでいます。

関本忠弘(1926年11月14日~2007年11月11日)は1980年からNEC社長を14年務めた。NECは長く、日本電信電話公社(現NTT)に依存する電話交換機メーカーとして、“電電ファミリー”の一角を占める企業だったが、関本は前社長の小林宏治が提唱する「C&C」(Computer & Communication)路線を継承し、コンピュータ、半導体、通信機などの総合電機メーカーの世界的企業に飛躍させた。

伊藤忠商事と丸紅という二つの総合商社の基となる呉服商「紅忠」を創業した初代伊藤忠兵衛の次男、2代目伊藤忠兵衛は、1951年1月から9月にかけて、毎号財界の重鎮を招く対談連載を「ダイヤモンド」誌に持っていた。1951年4月11日号で対談相手に招かれたのは、第一生命社長から東芝の社長に転じたばかりの石坂泰三である。

第49回
リスクを取ってでも、人と違う道を行くことを選ぶ若きリーダーたちは、何を原体験に、どう育ってきたのか。今回は、外泊するほど家賃が安くなる住居「unito(ユニット)」を展開する近藤佑太朗さん。両親とも教師という家庭に育ち、「人生を楽しむために、楽しいことをしてお金を稼ぎたい」という思いを持ち続けたそうです。

元通商産業省の官僚にして、作家、評論家として活躍、経済企画庁長官として政治の世界でも存在感を発揮した堺屋太一(1935年7月13日~2019年2月8日)。1985年12月28日号(86年の新年号に当たる)の「週刊ダイヤモンド」には、「“知価革命”と新経営者像」と題された堺屋の談話記事が掲載されている。

丸田芳郎(1914年12月16日~2006年5月30日)は、71年から19年間、花王の社長を務めた。「ビオレ」「バブ」「メリーズ」「アタック」「エコナ・クッキングオイル」などのヒット商品を次々に発売。さらに「ソフィーナ」で化粧品事業にも進出し、花王をトイレタリーで国内1位、化粧品では国内2位の企業に育てた。花王石鹸から花王に社名を変更し、業容も規模も飛躍させた“中興の祖”と呼ばれている。
