深澤 献
女性用ストッキングのトップブランドであるアツギは、創業者の堀禄助(1908年11月1日~93年6月15日)が1947年に設立した厚木編織が発祥である。高校卒業後、教師となった堀は、貧困をなくすことに使命感を抱き実業界に転身、片倉製糸紡績(現・片倉工業)で働く。そこで女性のストッキングと出合い、終戦直後の食うや食わずの状況が去れば、生活に潤いを求める時代が来ると確信し、「全ての女性の美と快適に貢献したい」という思いから、ナイロンを使ったストッキング製造で起業する。

1875年、長崎県壱岐島に生まれた松永安左ヱ門(1875年12月1日~1971年6月16日)は、89年に慶應義塾に入学、福沢諭吉から直接薫陶を受けるとともに、諭吉の娘婿・福沢桃介との縁を深め、共同で福松商会を創業する。さらに2人は福岡県で電力事業と鉄道事業を展開する九州電灯鉄道を創設。同社は合併を繰り返して拡大を続け、最終的には九州から四国、関西、中部地方までを供給エリアとする東邦電力と社名を変え、当時の「五大電力」と呼ばれる存在となる。

松尾静磨(1903年2月17日~1972年12月31日)は、「戦後の日本航空業界の父」と呼ばれる人物である。ライト兄弟が米ノースカロライナ州で初の有人飛行に成功した1903年、佐賀県に生まれた松尾は、28年に九州帝国大学工学部機械工学科を卒業すると、航空機メーカーの東京瓦斯電気工業(いすゞ自動車、日野自動車などの前身)に入社し、航空エンジンの設計を担当する。その後、30年に当時の航空行政を所管していた逓信省に入り、朝鮮総督府航空官や各地の飛行場長など、航空に関わるさまざまな業務に携わった。

三大財閥の“番頭”たちの手記。前回に続いて三井合名で取締役総務部長を務めた佐々木四郎の証言である。後編は、二・二六事件後の1937年に池田成彬が退任してからの話である(池田はその後、第14代日本銀行総裁に就任、大蔵大臣なども務める)。ますます軍国主義がはびこる中、三井は軍部から目の敵にされていたと佐々木は回想する。

3回連続でお届けしている三大財閥の“番頭”たちの手記。今回は三井合名で取締役総務部長を務めた佐々木四郎。1944年から3年間、三井不動産の社長を務めた人物だ。佐々木が繰り広げる昔話は、昭和初期から第二次世界大戦にかけて、主に軍人たちに振り回される三井財閥の姿である。

今回も「ダイヤモンド」1952年3月15日号に掲載された三菱、三井、住友の三大財閥の“生き字引”による証言を紹介する。今回は住友第七代総理事である古田俊之助による「住友憶い出すまま」と題された手記である。前回紹介した石黒俊夫は、第2次世界大戦後の連合国軍総司令部(GHQ)による財閥解体により、三菱本社の清算人を務めた人物だったが、古田は46年1月に自ら住友本社を解散し、住友最後の総理事となった男だ。

今回は、「ダイヤモンド」1952年3月15日号に掲載された石黒俊夫(1892年1月5日~1964年6月15日)の手記を紹介する。同号では、三菱、三井、住友の3大財閥の“生き字引”たちが、創業家との昔話や第2次世界大戦後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による財閥解体にまつわる秘話を披露している。

明治から100年という節目である1967年の12月4日号で、「明治100年・日本経済史への証言」と題された特集が組まれ、清水雅(1901年2月12日~1994年12月24日)が百貨店業界の今昔について語っている。

先週に続き、日本曹達の創業者、中野友禮(1887年2月1日~1965年12月10日)による科学エッセイを再掲しよう。翌号に掲載されたコラムでは、二酸化炭素の増加というテーマを引き継いで、「炭酸ガス増加原因に最も大きな影響をなすものは海水であって、これが吸収する量は莫大なものである」として、海の持つ可能性に話題を広げている。特に中野が関心を向けているのが、食料問題だ。

日本のソーダ工業は、1914年の第1次世界大戦までは多くを輸入に頼っていたが、大戦景気でソーダ製品の需要が膨らみ、参入が相次ぐ。京都帝国大学理学部で中野式食塩電解法(電解ソーダ法)を開発し特許を取得した中野友禮(1887年2月1日~1965年12月10日)が、20年に設立した日本曹達もその一つだ。

1953年12月、米アイゼンハワー大統領が国連総会で行った「原子力の平和利用」についての演説を機に、唯一の被爆国である日本の原子力政策が動き始めた。電力などの原子力の平和利用に関しては関連技術を同盟国に供与するという米国の方針に応え、わずか3カ月後の54年3月には戦後初の原子力予算が計上された。中心にいたのは改進党(現自由民主党)で予算委員会の筆頭理事だった中曽根康弘である。

日本に流通革命を巻き起こした“風雲児”、ダイエー創業者の中内功(1922年8月2日~2005年9月19日)の、「週刊ダイヤモンド」1982年7月10日号に掲載されたインタビューである。1人当たり実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を再び超え、経済白書に「もはや戦後ではない」と記述されたのは56年。その翌年に開店した「主婦の店ダイエー」も四半世紀という年月を重ね、すでに売上げは1兆円を超え、隆盛を極めていた。

高碕達之助は水産講習所(水産伝習所の後身)を1906年に卒業。高碕は缶詰製造会社の技師として、28歳でメキシコに渡り、水産工場の建設や缶詰製造に従事する。帰国後の17年、高碕は東洋製罐を設立。38年には缶詰技術者の養成と缶詰技術の研究を目的に、東洋罐詰専修学校(現東洋食品工業短期大学)を創設している。

渋沢栄一の三男・正雄が、1935年12月21日号の「ダイヤモンド」で父の思い出を語っている。正雄は31年に栄一が死去すると、翌年に製鉄業以外の関係会社の役職を全て辞任する。そして34年に、官営八幡製鉄所と民間製鉄会社5社が合同して発足した日本製鐵(現日本製鉄)の常務取締役兼八幡製鐵所所長に就く。それ以来、製鉄業のみにまい進した。

「ダイヤモンド」誌1935年9月21日号に掲載された、理化学研究所の大河内正敏(1878年12月6日~1952年8月29日)へのロングインタビュー。全3回に分けて紹介してきた最終回では、製鉄業や人造石油といったテーマを扱っている。

前回に続き、理化学研究所(理研)の第3代所長、大河内正敏(1878年12月6日~1952年8月29日)のインタビューである。「ダイヤモンド」1935年9月21日号に掲載された「理化学研究所長、大河内博士に物を聞く会」と題されたロングインタビューを全3回に分けた2回目だ。

日本の科学史に大きな功績を残してきた理化学研究所(理研)が誕生したのは1917(大正6)年3月である。渋沢栄一などの後ろ盾によって設立され、初代所長は帝国学士院長で元文部大臣の菊池大麓だった。しかし、菊池は就任5カ月で急逝、2代目所長の古市公威も健康上の理由から1921(大正10)年9月に辞任し、設立時から物理部研究員として参加していた当時42歳の大河内正敏が第3代所長に就任した。

岡橋林(1883年12月15日~1959年11月24日)は、1906年に住友銀行に入行し、下関、名古屋、東京支店長などを経て、41年に社長に就任。住友財閥の多くの企業の取締役も兼ね、関西経済連合会常任理事も務めたが、終戦の45年に辞任・公職追放となる。追放解除後の53年には吉田茂内閣の経済最高顧問、続く鳩山一郎内閣でも内閣経済懇談会の会員などの要職を務めた。「ダイヤモンド」1955年3月5日号に掲載されたインタビューで、岡橋は40年に及んだ“住友人生”を振り返っている。

1977年2月、松下電器産業(現パナソニック)で下から2番目(取締役26名中、序列25番目)のヒラ取締役が、いきなり社長に就任するという仰天人事が行われた。松下電器の3代目社長となった山下俊彦(1919年7月18日~2012年2月28日)である。当時、活躍していた体操選手、山下治広の跳馬の技にちなんで「山下跳び」と呼ばれた。

金解禁の半年前に「ダイヤモンド」に掲載された、時の大蔵大臣、井上準之助の談話だ。一貫して金解禁(金本位制への復帰)を訴えていた井上が、2号にわたって「ダイヤモンド」で持論を展開している。
