斯波孝四郎三菱重工業初代会長
 1857年に徳川幕府がオランダ海軍機関将校のH・ハルデスらを主任技師として招き「長崎鎔鉄所」の建設に着手したのが、三菱重工業長崎造船所の始まりである。わが国初の本格的な洋式工場だった。明治維新後は明治政府が接収し、長崎府判事の総轄の下に経営されていたが、1884年に岩崎弥太郎が経営する郵便汽船三菱会社(現日本郵船)が工場施設を借用し、事業を継承した(その後、施設一切を買収)。

 岩崎は1893年、海運業、造船業、鉱業、鉄道業など多分野を手掛ける持ち株会社、三菱合資会社を設立するが、それに伴い三菱合資会社造船部と改称。そして1934年、航空機分野が統合されて三菱重工業が発足する。その初代会長に就任したのが、斯波孝四郎(1875年1月24日~1971年6月13日)だ。

 斯波は、1899年に東京帝国大学工科大学造船科を卒業して三菱合資に入り、長崎造船所に27年も勤務して所長も務めた人物で、三菱グループの長老の一人。第2次世界大戦中の1942年、船舶、船員、造船の3部門における国家管理を行う造船統制会がつくられ、斯波は初代会長に就任。それを機に三菱グループからは離れ、戦後は経済団体連合会(経団連)の初代評議会議長や日本海事協会理事長などを歴任した。

 1955年6月5日号の「ダイヤモンド」に、「長老対談」と題されたダイヤモンド社創業者の石山賢吉との対談記事が掲載されている。

 日本の造船業は、この記事の翌年である1956年に建造量で初の世界一に躍り出て、高度経済成長時代には「日本のお家芸」と称されたが、斯波はまさに黄金期の基礎をつくり上げた“造船業育ての親”でもある。記事では、日清戦争後の欧州航路の大拡張に関する秘話、日露戦争後の太平洋航路での躍進、軍艦建造で培った技術力などの、貴重な事実が語られている。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

長崎造船所に27年
造船のことなら何でもやった

――日本の造船業を育ててこられた元老として、斯波さんには、いろいろ回顧談がおありと思いますが、初めに履歴書みたいなことをお尋ねして恐縮ですが、そこから一つお願いします。

1955年6月5日号
1955年6月5日号より

 私は、東大の造船科を出てすぐ長崎造船所に入りました。あの頃は、造船所といったら、長崎しかなかった。

――いつ頃ですか……。

 明治32年だ。

 私は技術屋だから、何でもやれるということで、設計もやる、現場もやった。試験水槽といって、小さなモデル船を、その水槽に入れて、いろいろな研究をした揚げ句本物の船を設計し、建造するやり方を、最初に、やり出したのもわれわれだ。そのために、外国へ教わりにも行った。そのうちに、だんだん地位が上がって、造船工場の主任になり、ついで造船所長になった。

 所長になったのは、大正末期の5年間だが、この長崎造船所には27年も勤務した。今となれば長いようで、短いものになってしまった。

――造船のことなら、何でもやられたわけですね。その頃の長崎造船所は、まだ三菱合資会社の造船部に属しておった時代でしょう。