山本洋子
奈良と会津の結び付きは平安時代にさかのぼる。空海や最澄と同時代に活躍した高僧、徳一が奈良から会津に移住し、多くの寺院を建立して敬われた。その縁あってか会津には奈良屋という屋号が多い。喜多方市の夢心酒造もその一つだ。

「金は悪です」。キッパリ言い切る小松大祐さん。焼き物の町、佐賀県唐津市相知町の小松酒造7代目の蔵元杜氏だ。慶應義塾大学卒業後、大手証券会社でトップセールスマンとして活躍したが、金を巡って醜く争う人々を数多く見た。悩んだ揚げ句、高給取りの身分を捨て、実家の酒蔵を継いだ。「酒造りでもうけた金は全て酒造りに返し、子供たちにはびた一文残しません」。

女性杜氏の草分けである森喜酒造場5代目の森喜るみ子さん。大阪大学薬学部を卒業し、製薬会社に勤務中、父が脳梗塞で倒れる。急きょ結婚して1989年に家業を継ぐが、人手不足のため、妊娠中でも朝4時に起き、30kgの米袋を運んだ。家計を助けるため薬剤師の免許を生かして薬局にも勤務。さらに3人の子育てが加わり、分刻みの日々を過ごしていた。そのとき出合った漫画が『夏子の酒』だ。

1909年、呉服店を営んでいた前田家が酒蔵を創業し、前田酒造と名乗っていたが、3代目の前田健三さんが古伊万里酒造に改名。主に普通酒を醸し、焼き物の町の地酒として愛飲された。だが、健三さんは2011年に急逝し、長女の前田くみ子さんが4代目を継ぎ、夫の悟さんと共に酒造りを開始。当時、佐賀県には「鍋島」や「東一」など、すでに国内外で有名な酒を醸す蔵があり、「古伊万里も、世界に向けてお酒を出したい!」と強く思ったという。

栃木県小山市の若駒酒造の屋号は「太○」と書いて「かねたまる」と読む。意味はもちろん「金たまる」だ。創業は1860年、祖先は商売上手といわれる近江商人だが、6代目の柏瀬幸裕さんが蔵へ戻った2009年は、金がたまるどころか、出ていく一方。「親孝行のつもりで、3年間だけ酒を造ろうと帰ってきました」。当時の生産量はたったの100石。そのうち7割は儲からない普通酒だった。

環境省選定の日本名水百選の一つ、八ヶ岳の「三分一湧水」は、戦国時代に水の利権で争う三つの村に、武田信玄が堰を築いて等配分したのが名の由来。この水で酒を造るのが武の井酒造だ。

栃木県矢板市大槻はその昔、大きな槻(ケヤキの古名)があり、その裏に九つの尾を持つ狐がいたという九尾伝説が残る土地。これにちなんで屋号を「九分」にしたのが富川酒造店だ。

フレッシュ感があり、マスカットを思わせる爽やかな日本酒、それが小林酒造が醸す鳳凰美田だ。日本酒嫌いを次々と目覚めさせた鮮烈なデビューから30年近くがたつ。

東京・福生の多摩川東岸で、1863年から酒造業を営む多満自慢醸造元の石川酒造。樹齢700年のケヤキ、400年の夫婦ケヤキ、サクラなどの木々に囲まれた敷地には、国の登録文化財に指定された建物が6棟と、レストラン、ビール工房、史料館や直売店などが並び、「酒飲みのテーマパーク」がキャッチコピーだ。

「酒造りは根知谷を守るため。この谷で完結する酒蔵です」と、渡辺酒造店6代目の渡辺吉樹さん(「吉」は「土に吉」)。

小松市の北部、田園の広がる野田町で1860年に創業した神泉醸造元の東酒造は、美しく力強い石造りの蔵を有する。石は地元小松市観音下の山から切り出した凝灰岩で、古墳時代前期は装身具に使われ、きめ細かな石質は加工しやすく建築物にも重用された。

#28
日本酒の出荷量は1973年の177万klをピークに減少し、現在は50万klを割る。4000場あった酒蔵は1700場に。輸出が好調といわれるが、製造量の5%にすぎない。そこにコロナが直撃し飲食店が休業や時短営業になり、旅行や祭りも自粛で酒の行き場がなくなった。今回は、4人の賢人からコロナ後の日本酒を占う動きを見いだしたい。

ハイエンドの土佐酒を目指し、新天地で酒蔵をゼロから建てた酔鯨酒造の社長、大倉広邦さん。大手ビール会社を退職し、母方の祖父、窪添竜温さんが創業した酒蔵を35歳で引き継いだ。

「仲間になる。それが土佐酒」と高知県内の18蔵で「TOSA NAKAMASAKE」をブランドコンセプトにした高知県酒造組合。そのまとめ役の長が司牡丹酒造社長の竹村昭彦さんだ。

高知に彗星のごとく現れた酒造りの名手、文佳人醸造元アリサワ5代目の有澤浩輔さん。清涼感ある果実のような美酒で、全国新酒鑑評会など様々な大会で高評を得る。

米どころ会津坂下町の酒蔵、天明醸造元曙酒造の鈴木孝市さんは27歳で杜氏を継ぎ、9年間で生産量を400石から1200石に増やした。

世界農業遺産指定の大崎耕土がある宮城県大崎市は、自然環境と共生した農業が盛んな所。ここで環境保全米を育て、酒造りをするのが一ノ蔵だ。
