1991年の優勝の瞬間。胴上げされる山本浩二監督

「週刊ダイヤモンド」9/10号の第2特集は「カープ25年目の歓喜に沸く広島今昔物語」です。広島東洋カープの1991年以来のリーグ優勝を目前に、25年という時間の重みに迫り、この間の広島の経済・産業の変貌ぶりを振り返りました。本特集から作家・迫勝則氏の寄稿を特別公開します。

 今季のカープは何かが違う。いま広島に住んでいる多くの人たちがそう思っている。

 カープが最後にリーグ優勝してから25年。この明らかに違う空気の正体は、いったい何なのだろうか。25年の時間経過を振り返り、そこにある芯のようなものを探ってみたい。

 まずカープが25年前(1991年)にリーグ優勝したときの主力メンバーの名前を思い起こしてみよう。

 投手は、紀藤真琴、北別府学、川口和久、佐々岡真司、大野豊ら。打者は、小早川毅彦、西田真二、山崎隆造、正田耕三、野村謙二郎らだった。

 他のセ・リーグ5球団から見ると、“投手王国”と“走る赤ヘル”というやや古びた二つの看板を背負っているチームだった。

 同年4月6日のヤクルトとの開幕戦(広島市民球場)。高卒2年目の前田智徳が、先頭打者としてプロ初本塁打を放った。

 また同月14日の巨人戦(広島)。8回の1対0の場面で津田恒美が登板し、原辰徳に同点打を打たれた。これが結果として“炎のストッパー”の最後の一球になった。

 つまり91年は、新旧の選手が入り乱れ、希望と悲しみのドラマが容赦なく進行していくシーズンだったのである。世にはカラオケボックスが登場し、相撲界では空前の若貴ブームが起きた。

 その後のカープは、辛うじて三村敏之が率いた95年に、74勝56敗1分けで2位を確保したものの、いつの間にか4~6位を定位置とするチームになった。

1リーグ制への移行騒動で消滅の危機

 99年からの達川光男(2年間)。2001年からの山本浩二(5年間)。この2人は、監督としてとりわけ厳しい時代を迎えることになった。

 その間、勝率5割を超えたのは、ただ一回、01年の68勝65敗7分け(4位)だけだった。球場からも次第に客が遠ざかっていく。

 いま広島に住む20~30代の人たちが持っているカープイメージというのは、大体そのころのイメージをコアにしている。