人体改変で「人間」を超えることは許されるか

しかし、この論争で重要なことは、フクヤマとストックの対立よりも、両者が共通の認識にもとづいている点にあります。ストックもまた、現代のバイオテクノロジーが「ポストヒューマン(人間以後)」に導く、と考えているのです。たとえば、ストックが書いた、次のような文章を読むと、現代の状況がはっきりと理解できるのではないでしょうか。

ホモ・サピエンスで霊長類進化が終わりではないことは分かっているが、私たちが著しい生物学的変化の先端にあって、現在の姿や性質を超越する、新たな想像力の目的地に向かって旅立とうとしていることを把握している人間はまだごく少数である。(中略)私たちが最終的に姿を消すに至る道は、人類の失敗によってではなく人類の成功によって切り開かれるかもしれない。徐々に漸進的に自己変容していくことによって、私たちの子孫を、現在使われているような意味で人間とは呼べないほどに現在の人類とは違ったものに変えてしまうことができるかもしれない。(中略)ホモ・サピエンスは、その進化を急速に前進させることによって、自らの後継者をうみだすだろう。

一つだけ付言しておけば、ここで念頭に置かれているのは、生殖細胞系列の遺伝子改変ですが、具体的には受精卵に対して遺伝子操作を行ないます。この技術によって遺伝子が改変されると、それが次の世代へ引き継がれていきます。この改変を何世代か繰り返していけば、やがてまったく違った生物(ポストヒューマン)が誕生する、というわけです。

たとえば、オックスフォード大学の哲学者ニック・ボストロムは、次のように述べています。

バイオ保守派は一般に、(中略)人間の本性を変えるために、テクノロジーを使うことに反対している。バイオ保守主義の中心的な考えは、人間のエンハンスメント(能力増強)・テクノロジーがわれわれ人間の尊厳を掘り崩してしまうだろう、ということである。

ここでバイオ保守派と呼ばれているのは、現代のバイオテクノロジーが人間以後(ポストヒューマン)へ向かうという点で、反対する主張を指しています。その典型はフランシス・フクヤマの議論にありますが、フクヤマは「人間の尊厳」という概念にもとづいて、バイオテクノロジーを規制しようとしました。人間には尊厳があるのだから、人間の遺伝子改変は認められないと考えているのです。

しかし、現在の人間の能力(身体的・精神的能力)を増強することが、どうして「人間の尊厳」を侵害することになるのでしょうか。より高い能力を目指すことが、なぜ「尊厳」を損なうことになるのでしょうか。現在の人間の能力を超えていくことは、むしろ私たちにとって目指すべき方向ではないでしょうか。こうした観点から、ボストロムは「トランスヒューマニズム(人間超越主義)」を提唱しているのです。

人間超越主義(トランスヒューマニズム)の考えによれば、現在の人間の本性は、応用科学やほかの合理的方法によって改良することができる。それによって、人間の健康の期間を延長し、私たちの知的・身体的能力を拡張し、私たちの心的状態や気分に対するコントロールを増大させることができるのである。

こうした「トランスヒューマニズム」を採用して、人間の能力を増強していけば、その先にポストヒューマン(人間以後)の地点に到達します。ボストロムによれば、現代はまさにその出発点となるのです。こうした「トランスヒューマニズム」は、最近ではボストロムの他にも賛同者が多くなり、『人間エンハンスメント論集』(2009年)や『トランスヒューマニスト読本』(2013年)なども出版されています。