そこで全俳句に占める割合がほぼ同等になる句数を越える季語でランキングを比較したのである(本当は芭蕉は6~7句以上でないと同等とは言えないが少なすぎると特徴も見えないので5句以上とした)。

表1 季語ベスト5

©本川裕 ダイヤモンド社 禁無断転載
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 両者のベスト5を比べると、第1位が花・桜で共通である他、梅、雪が入るなど、最多5つの季語の多くが重なっている。最頻出季語が重なっている点に俳句という我が国詩形式の共通基盤を見ることが可能である。

 次に両者のランキングをもう少し詳しく見てみると、蕪村が春夏秋冬の四季に渡ってまんべんなく季語を用いていたのに対して、芭蕉の場合は秋と冬に季語が片寄っていることが分かる。また、どんな季語を使用する頻度が高いかについて見ると、芭蕉が月やほととぎすが非常に多いなど季語の集中が目立つのに対して、蕪村の方は、季語がバラエティに富んでおり、多彩な作風が目立っている。

 季語ランキングによるこうした対比をさらに補完するため、例えば「時雨」という季語の代表句を並べてみると、

 旅人とわが名呼ばれん初時雨 芭蕉
 老が恋わすれんとすればしぐれかな 蕪村

 私なりに意訳すると、芭蕉の句は「冬を告げる定めない時雨と自分を重ね合わせるときこそ自信を持って旅人と呼ばれてもよい気になる」、蕪村の句は「年甲斐もなく恋心を抱いてしまった。いかんいかんと思ってふと外をみるとこうした自分を象徴するかのように時雨が降っていることに気がついた」となる。

 芭蕉と蕪村の対比は、思い切り単純化するとマジメとオトボケであり、ルソーとヴォルテール、萩原朔太郎と室生犀星、白土三平と水木しげるといった対比と似ていると言える。芭蕉の場合、秋と冬に季語が片寄るのはマジメだからとも言える。

 さらに、もう一つの例として、芭蕉の好む寂寥の秋と蕪村の好む物憂げな春の言葉づかいも対照的な2句を次に掲げよう。

 こちらむけ我もさびしき秋の暮 芭蕉
 あちら向に寐た人ゆかし春の暮 蕪村

 俳句を成り立たせている季語という観点からまとめると、芭蕉と蕪村を対照させたこうした句に見て取れるように、孤高の漂泊精神もロマンチックでエッチな気持ちも、同じように、日本の自然に抱き留められているという共鳴の仕方に、我が国独自の自然観を反映した詩形式である俳句の本質があらわれているといえよう。

 慣れ親しんでいた芭蕉や蕪村の俳句であるが、このように季語別に数え上げてみると、何となく感じていた両者の違いがくっきりと浮かび上がるのであり、やはり確認するだけのことはあったと思えるのである。

 以上、古典作品のキーワードを数え上げ、ランキングを作成するという統計作業から、意外、発見、確認という3種類のやや働きの異なる観察ができる例を紹介した。統計データは面白いということを実感していただけたら幸いである。