明治維新と官軍教育
思えば、明治維新といわれるあの時には、やはり卑しいほどの欧米崇拝に狂奔し、大東亜戦争敗戦によって占領されたその後は、再びアメリカ至上主義が社会をリードするという具合で、占領下で幼少期を過ごした私などは、検証されないままの「官軍教育」と、やはり検証されたことのない占領軍教育とその派生でもある左翼教育に振り回されて、異常な教育を受けて育ったのである。
ほんの一例を挙げれば、「道」のつくものはすべて軍国主義に繋(つな)がるという乱暴な理屈で、華道、茶道まで白眼視され、学校教育では柔道、剣道、書道などはすべて禁止されたのである。
他国の民族文化などに余り興味も知識ももたぬGHQは、「道」という文字の付くものはすべて「国家神道(しんとう)」に繋がるものであると誤解していたのであろう。
また、地域と時期によって大きな差はあるものの、日の丸を堂々と掲揚できなかったことは、占領された民族としては当然であった。
事のついでに余談として述べておくが、アメリカに占領されていた七年間に米兵に殺された日本人は、調達庁の資料を調査した高山正之氏によれば約二千五百名である。
そして、米兵に強姦された日本女性は二万人強とされ、米兵が強姦している現場で日本の警察官が見張り役をしていたという事例は数多く伝えられている。
これら米兵の犯罪や非行は、GHQの厳しい「検閲指針」によって、新聞やラジオは一切文字にも言葉にもできなかったのである。
この「検閲指針」に違反すると、米軍の軍事裁判にかけられ、「三年乃至(ないし)五年の沖縄に於ける強制労働」を課されることになっていたのだ。
勿論、違反しているかどうかを判断するのは、GHQである。
逆にGHQは、新聞やラジオに、戦時中に日本軍が如何に残虐な行為を行ったかを繰り返し報道させた。
このことが、戦後日本人に拭い去れない贖罪(しょくざい)意識を植え付け、自虐史観といわれる歴史認識を定着させたことは否定できないであろう。
日本の敗戦直後に副総理格で無任所国務大臣となった近衛文麿は、玉音放送から十一日後に早くも「特殊慰安施設協会」を設置している。
この協会は、日本各地に「慰安所」を設置した。
慰安所とは、平たくいえば米兵のための“売春宿”である。いわば、敗戦国ではあったが国立の売春宿であったのだ。
GHQの占領政策をアカデミックに論じることは盛んに行われてきたが、その種の論だけでは敗戦、占領下の実態は分からない。
敵国に占領されるということは、こういうことなのだ。