明けて十二月九日、朝議を終えた摂政以下の上級公家が退出したのを見計らって、薩摩をはじめとする五藩の藩兵が御所九門を封鎖、公家衆の参内を阻止した上で岩倉具視が参内、明治天皇を臨席させ「王政復古の大号令」を発した。
つまり繰り返すが、これは、幼い天皇を人質とした軍事クーデターであったのだ。
大号令の内容は、
・徳川慶喜の将軍職辞職を勅許する
・京都守護職、京都所司代を廃止する
・江戸幕府を廃止する
・摂政関白を廃止する
・新たに、総裁、議定(ぎじょう)、参与の三職を設置する
というもので、「王政復古」とはいいながら、その実は二条家を筆頭とする上級公家の排除と一部公家と薩長主導の政権奪取の宣言に他ならない。
ただ、これによって「公武合体」論などが孕(はら)んでいた、また徳川慶喜が企図していた「徳川主体の新政府」の芽は完全に抹殺された。
現実に、岩倉が参与に就任したこの三職は、半年を経ずして廃止されている。つまり、大号令五項の内(うち)、先の四項が主眼だったことがはっきりしているのだ。
岩倉具視という下級公家はもともと過激であったが、この時期の薩摩藩大久保利通は異常に過激である。
私は、大久保という男はどこか根強いコンプレックスを抱えているという印象をもっているが、この時期の異様な高揚ぶりも、私にはその印象を裏付けるものとしか映らない。
そして、薩摩藩そのものが、この時期、宮廷内を我が物顔で闊歩(かっぽ)、朝廷権威を蹂躙(じゅうりん)している様(さま)は、やはり動乱の時代であったことを正直に顕(あらわ)すものといえよう。
動乱の歴史に関わった人びとを観察する時、どれがその人物の「本性」か。
これを見極めることができれば、その人物の関わった歴史の実相がみえ易い。
歴史とは、表面的には人の行動記録に過ぎないが、人をその行動に駆り立てた本性がどういうものであったか、歴史に通(かよ)っているはずの血の温もりを感じるために、私はそれを洞察することに常に神経を尖(とが)らせている。
さて、幼い天皇を人質として利用した岩倉具視、大久保利通らのクーデターは成功したのか。
結論からいえば、失敗に終わった。その詳細は次回に譲ろう。