波瀾万丈のベンチャー経営を描き尽くした真実の物語「再起動 リブート」。バブルに踊らされ、金融危機に翻弄され、資金繰り地獄を生き抜き、会社分割、事業譲渡、企業買収、追放、度重なる裁判、差し押さえ、自宅競売の危機を乗り越え、たどりついた境地とは何だったのか。
本連載ではいち早く話題のノンフィクション『再起動 リブート』の中身を、先読み版として公開いたします。


IBMでコンピュータ・オタクに──[1985年4月]

 学生時代、遊びほうけて単位が足りず、一年余分に大学に通うことになった僕は、23歳で日本IBMに就職した。IBMといえば、マイクロソフトとインテルがパソコンの世界を牛耳るまで、コンピュータ業界の圧倒的な覇者として君臨していた、世界に冠たるエクセレントカンパニーだ。だが、僕がIBMに入れたのは、偶然が重なった結果だった。

 理系なのにろくにコンピュータに触ったこともない。コーディングもまるでわからないし、授業はあったがまともに出席したことがない。大学内の計算センター――まだパソコンもあまり普及していない時代、コンピュータのプログラムはパンチカードという穴の空いた紙を読み込む方式だった――に行って、そこに落ちている誰かが捨てた印刷紙を拾って課題レポートとして提出するような、まったくもってふざけた学生だったのだ。もちろん成績は最悪で、就職しようにも教授の推薦はもらえない。

 ところが、一年留年したことで僕にも運が巡ってきた。その年、日本IBMが2000人近い新卒の大量採用に踏み切ったのだ。前年までは400人ほどだった採用枠が、一気に五倍に拡大した。採用基準はゆるくなり、慶應理工学部の学生なら、ほぼ100%内定をもらえた。

 採用面接では大学の成績を聞かれたので、「中の下くらいだと思います」と答えておいた。本当は「下の下」だったのは内緒のことだ。考えることはみんな同じで、僕のまわりの悪ガキたちも三人ほどIBMに潜り込んだ。今だから言うが、僕たちはそこにしか入れなかったのだ。

 IBMに入って最初に配属されたのは、森進一のCMで売り出し中のパソコン「IBM5550」のソフトウェアを企画開発する部署だった。しかし、頭の痛い問題があった。約半数は外国人で、英語が当たり前の職場だったのだ。知識不足で日本語でもついていくのがやっとの世界なのに、会話の半分は自然に英語になってゆく。それでミーティングでも貝のように黙りこくっていた。発言しなければ、できない人間だとレッテルを貼られてしまう。僕の評価は最低だった。

 僕が結婚したのはちょうどその頃だ。相手は一つ年下の帰国子女で、お嬢様だった石村若菜だ。福田や納富、天羽らと同じシーズンスポーツサークルのメンバーで、気心の知れた仲だった。つき合って一年ほどだったが、二人にとって結婚は自然な成り行きだった。両親の結婚が早かったためか、僕はなぜか二四歳が平均的な結婚年齢だと勘違いしていたし、彼女の卒業したお嬢様学校では、就職しないで家庭に入ることも珍しくなかったのだ。

 それでも、世帯を持ったという気負いがあったためだろう。英語でさんざん苦しんだ部署から、わずか一年半で別の部署へ飛ばされたのを機に、僕は必死に勉強しはじめた。なにせ新しく配属された組織は、小さなパソコンとは正反対で、超大型のホストコンピュータのソフトウェア開発部門なのだ。1000ページを超える分厚い説明書など当たり前の世界だ。「MVS」「VM」「CICS」「VTAM」「VSAM」など、見たこともない単語が羅列されたマニュアルをめくり、一つひとつ理解しなくてはいけない。それらを積み上げると、オフィスの天井に届いてしまうほどだった。

 でも、僕はもともとハマりやすい性格だ。時間を忘れて没頭するうちに、いつしか僕の腕前は上達し、周囲の見る目も変わってきた。コンピュータの仕事は、凝り性の僕に合っていたようだ。

 両親が名づけた徹という文字を何千回、何万回となぞるうちに、僕は自然と徹底的な性格になった。ふだんは適当に過ごしているが、いざ何かに興味を持つと、とにかく徹底的にやらないと気がすまない性分なのだ。

 小学生の頃は近所の酒屋を回っては一心不乱に酒蓋を集めまくり、何百種類ものコレクションになった。友だちと酒蓋のひっくり返しで勝負するためだ。中学に入ると古銭にはまって、毎日のように友人と銀行で両替をしてまわった。何十回に一回は、昭和35年の五円玉や33年の十円玉などの掘り出し物が手に入る。そのたびに狂喜乱舞したものだ。

 思春期も半ばになるとフォークやロックにしびれ、ミュージックマガジンが愛読書になった。小遣いはすべて中古輸入レコードにつぎ込み、レアものを含め1000枚近いコレクションとなった。

 大学に入ったら麻雀三昧だ。阿佐田哲也のピカレスクロマン『麻雀放浪記』に陶酔し、登場人物の“坊や哲”や“ドサ健”に憧れた。小島武夫、畑正憲、灘麻太郎など、雀豪の本を読みあさり、イカサマ技まで覚えて、下北沢のフリー雀荘に遠征した。家には雀荘からタダでもらった中古の全自動麻雀卓まで備え、本業の学問には見向きもせず、麻雀技を磨く毎日だった。

 蓼科の宿でダイヤルQ2の話で盛り上がったのは、入社五年目の28歳のことだ。

 IBMの東新橋事業所に勤務していた僕は、人間が理解するためにつくられたコンピュータ言語を使わずに0と1で表現された機械語を打ち込んで操作したり、メモリをダンプ(書き出すこと)して数字の羅列を眺めたり、フロッピーのコピープロテクトを破ることに熱中したり、そんなオタクな技術者に成長していた。IBMの平均的な技術者が一日100行ほどプログラムを書けるとすると、僕はその10倍ぐらいのスピードで開発することができた。加えて、システム設計やプロジェクトマネジメントにも精通し、システムエンジニア(SE)として一目を置かれる存在となっていた。

 自信を深めた僕は、社内で情報システムの設計や開発、さらにはコンサルティングや事業企画などをこなす一方で、週末になると知り合いのソフトウェアハウスに顔を出し、システム開発を請け負うようになる。週末だけの副業だったが、月に100万円以上も手にすることもあった。副業の収入が本業を超えた頃、僕の頭のなかには「独立」の二文字が浮かぶようになった。

 しかし、現実は甘くない。インターネットも携帯もない時代、若者が起業するための道のりは今よりかなり険しかった。大企業は取引先を帝国データバンクの点数で足切り評価していたから、創業まもないベンチャーが取引するには太い人脈が必要だ。ベンチャーキャピタルのような資金調達の仕組みもほとんどない。銀行は――もそうだが――中小企業への融資の際には代表者の個人保証を強要するので、倒産したら経営者は確実に破産に追い込まれてしまう。弱冠20代でエクセレントカンパニーを退職して起業する。それは無謀ともいえる挑戦だった。

 このまま会社に残っていれば、そこそこのポジションには行けるかもしれない。しかし、一度しかない人生だ。資本主義の世の中に生まれた以上、思い切って困難な壁に挑戦したい。失敗したら、またその時に考えればいいじゃないか。

 起業の構想をあたため、事業計画までつくっていた僕にとって、ダイヤルQ2の話はまさに渡りに舟だった。現在の副業とダイヤルQ2事業を組み合わせれば、未来の可能性は大きく開けるはずだ。蓼科の夜、悪友たちと盛り上がった夢物語は運命的なものだった。僕のなかのベンチャースピリットは、もはや堰止められない奔流となっていた。(つづく)

(第4回は12月26日公開予定です)

斉藤 徹(さいとう・とおる)
株式会社ループス・コミュニケーションズ代表 1961年、川崎生まれ。駒場東邦中学校・高等学校、慶應義塾大学理工学部を経て、1985年、日本IBM株式会社入社。29歳で日本IBMを退職。1991年2月、株式会社フレックスファームを創業し、ベンチャーの世界に飛び込む。ダイヤルQ2ブームに乗り、瞬く間に月商1億円を突破したが、バブルとアダルト系事業に支えられた一時的な成功にすぎなかった。絶え間なく押し寄せる難局、地をはうような起業のリアリティをくぐり抜けた先には、ドットコムバブルの大波があった。国内外の投資家からテクノロジーベンチャーとして注目を集めたフレックスファームは、未上場ながらも時価総額100億円のベンチャーに。だが、バブル崩壊を機に銀行の貸しはがしに遭い、またも奈落の底へ突き落とされる。40歳にして創業した会社を追われ、3億円の借金を背負う。銀行に訴えられ、自宅まで競売にかけられるが、諦めずに粘り強く闘い続けて、再び復活を遂げる。2005年7月、株式会社ループス・コミュニケーションズを創業し、ソーシャルメディアのビジネス活用に関するコンサルティング事業を幅広く展開。ソーシャルシフトの提唱者として「透明な時代におけるビジネス改革」を企業に提言している。著書は『BE ソーシャル 社員と顧客に愛される 5つのシフト』『ソーシャルシフト─ これからの企業にとって一番大切なこと』(ともに日本経済新聞出版社)、『新ソーシャルメディア完全読本』(アスキー新書)、『ソーシャルシフト新しい顧客戦略の教科書』(共著、KADOKAWA)など多数