そしてある程度のデータが集まったところで、トップバストサイズとカップサイズによる新しいブラジャーのサイズ基準作り(カップ・グレーディング)を行っていった。

 最初に制定したのはトップバストのサイズが30、32、34、36インチ、カップサイズAA、A、B、Cの合計13サイズである。これを昭和31年(1956年)の春物から導入した。

「カップサイズ」を前面に打ち出した広告(『週刊朝日』1956年5月20日号)

 ブラジャーの標準規格をいち早く導入したことによって、和江商事は業界リーダーの地位を不動のものとする。

 和江商事は、現代の企業経営で言うところの“規格競争”において機先を制し、ブラジャーのデファクトスタンダートを勝ち取ったのだ。まさに玉川は、幸一が願ったとおり“ブラジャーの神様”になったのである。

 縫製技術も飛躍的に高まっていった。

 昭和32年(1957年)3月、岡崎勧業会館別館で催された第3回京都縫製技能者競技大会のブラジャー部門で、北野工場縫製技術者チームは2位以下を大きく引き離して見事優勝を飾っている。

 縫製機械の開発分野でも優秀な技術者が育っていた。

 工務室代表の小島鋭太郎は科学技術庁長官賞を2度も獲得した発明家だったが、彼は万能ギャザー取り押さえ金具(昭和34年)や自分の頭文字をつけたEK式万能自由ガイドラッパ(昭和37年)など、新しい発明を次々に発表していく。

 前者はギャザーを編む際にミシンにつけるアタッチメントであり、後者は布やテープを折り曲げたり束ねたりする際に用いるアタッチメントである“ラッパ”を改良したものであった。

 技術・商品開発への先行投資が花開いたことで自信をもった幸一は、昭和33年(1958年)1月、検品課を設置する。

 徹底的に商品を吟味し、不良品が混じらないようにチェックしてから市場に出そうというのである。

 技術へのこだわりを社内に徹底するため、やや芝居がかったこともして見せた。不良品が返品されてくると、工場の中庭に社員を集め、その前で焼いたのだ。

 (商品を焼くやなんて……)

 それがどれほどショッキングなものであったかは、自分で商品を作った者にしかわかるまい。だが幸一はあえて焼いた。

 仕立て直して市場に出す方が損失を小さくできることなどわかっている。それでもこうすることで、不良品を絶対に出すまいという戒めとしたのである。

 創業者が会社の中に残した“思い”は、たとえその後何十年が経過しようとも、その会社の中に何らかの形で継承されているものである。

 それを確かめてみたくなって、先日、福井にある北陸ワコール縫製株式会社にお邪魔した。ワコールの最高級ブランド「ワコールディア」を作っていることで知られる最新鋭の工場である。

「今でも不良品は焼いておられるのですか?」

 我ながら愚問を発したものである。

 現代はエコの時代だ。今は不良品を焼くことなどしておらず、もう一度ほどいて再利用するのだが、しばらくの間、不良品を陳列しておく部屋があった。

 不良品といってもプロでないと判別はつかない。もし市場に出回って装着してみても、おそらくわからないであろうというケースがほとんどだ。

 それでも彼らはわずか1ミリ縫い目がずれていても、立派な不良品として選別している。もし不良品が出れば、工場の掲示板に大きく貼り出されている不良品率目標に反映されることになる。工程ごとに責任者が決まっているから、誰が不良品を出したかは明らかだ。

 現場責任者が職人一人一人の癖まで把握しており、

「彼女はどうしても左ひじを張ってミシンを操る癖があるので、この種の不良品を出す率が高いんです」

 と説明されたのには驚かされた。

 商品を焼いてまで社員に品質向上を訴えた幸一の“思い”は、見事なまでに現代に引き継がれていたのである。

 検品課が設置された年(昭和33年)、「ワコールのブラジャーは3288枚の型紙で作られており、製品の良否は縫製によって決まります」と大見得を切った広告が登場する。彼らの自信のほどがうかがえる。

「商品は神様なり!」

 と説いた木原光治郎会長の職人かたぎに、渡辺あさ野が心血を注いで導入したフォード方式、さらには玉川たちがアメリカから学んだ世界最高水準の技術が加わり、和江商事は他社を圧倒しはじめていた。