明治になって、近代国家を造ろうとしたときに、天皇は日本のアイデンティティーの中心となりました。

 国家というのは一つの生き物といえますが、その中心、へその部分に天皇がいる。天皇という中心があったからこそ、何とか国家として成立したわけです。江戸時代までは各藩がばらばらで、それぞれが国家みたいなものだったのですから。

 ところが、近代国家にならんがために中心に座る天皇が、実は、前近代的な非合理なものを抱えている。言ってみれば、明治以降の日本はダブルスタンダードというか、矛盾を抱えているのです。

 非合理なものとは何か。例えば、過去を思い出す、あるいは、時代を捉えるときに、「昭和」や「平成」で考える人は多いでしょう。一方で、天皇が崩御すれば元号が変わります。

 つまり、一人の人間の死によって、日本国民全員の時間軸が一瞬にして変わるわけです。

 そのような非合理性が、日本人のアイデンティティーの形成にも大きく影響しているんです。

合理主義と非合理の相反に
悩みながら元号を研究した鷗外

──確かに元号というのは他の国にない独自の仕組みですね。『天皇の影法師』では、森鷗外が晩年に取り組んだのが、「元号の考証と編さん」だというエピソードが紹介され、印象に残っています。

 鷗外は明治の日本という国家にとっては天皇が必要で、そのためには元号がしっかりしたものでなければいけないとも考えていた。そこで、病気の体にむち打って、元号の研究に打ち込んだわけです。

 ところが一方で、西洋に学び医師でもある鷗外は、近代の合理主義を強く胸に抱えていました。自分の中に相反するものが同居する苦悩を、鷗外は小説『かのように』に投影しています。

 当時も今も、そういう状況は変わらないでしょう。なぜなら、儀式や祭りのない国家はないからです。ネーティブアメリカンが頭に付けている立派な羽根飾りのように、そういう装飾があってこその国家なのです。