「尾去沢銅山事件」と井上馨の罪
これによって、事件は闇に葬られることになってしまったのである。
「尾去沢(おさりざわ)銅山事件」も、これまた長州閥による絵に描いたような権力犯罪であった。
大蔵大輔井上馨(聞多:もんた)が官権を悪用し、民間人から銅山を強奪するという、露骨といえば露骨過ぎる犯罪であった。
伊藤博文と共に新政府きっての女癖の悪い井上という男は、金銭欲も激しかった。
二人は、高杉晋作の子分として走り回っていたが、まるで女と金を求めて動乱の時代を疾駆(しっく)していたかのような印象がある。
そもそも、井上を大蔵大輔に任命するなどという人事は、まるで盗人に財布を預けるようなものであって、新政府、特に長州閥の性格をよく表している。
この男は、長州俗論党に襲撃されたことがあるが(袖解橋<そでときばし>の変)、さすがの司馬遼太郎氏も、この時死ぬべきであったと断じている(人の生死を手軽に扱い過ぎる言い方ではある)。
大蔵大輔時代は「今清盛」といわれていたほど、権力によって財を為すことに執着が強かったようだ。
この事件が表沙汰になった時の大蔵卿は大久保利通であったが、彼は岩倉使節団として外遊中であり、留守政府の大蔵省は井上が私物化していたといっても過言ではない。
南部藩は、御用商人村井茂兵衛(むらいもへえ)から少なくとも五万五千円という多額の借金をしていたが、当時の習慣によって証文には「奉内借」(内借し奉る)と書かれていた。
これは、藩への貸付金の一部でも返却された時に提出することを想定した文言(もんごん)であって、武家や大名家と町民である商人との間の儀礼的慣例である。
いくら井上と雖(いえど)も、その程度のことは分かっていたはずである。
ところが井上は、これを「村井が藩から借財している」として即時新政府への返却を命じたのである。
いきなり新政府へ、ということ自体非論理の極みであり無茶苦茶な話であるが、この時、井上に指揮された大蔵省は、村井の釈明を一切聞かず、強引に村井の債務だとして返済を迫ったのである。
実に稚拙な、かつ官権を悪用した露骨なやり口である。
藩への貸付を逆に藩から借金したことにされてしまった村井は、年賦返済を願い出るが井上はそれも拒否、尾去沢銅山を没収してしまう。
日本近代史の研究家毛利敏彦氏は『明治六年政変』(中央公論新社)に於いて、以下のように述べている。
―― やむをえず村井が年賦返済を嘆願すると、それを拒絶して理不尽にも村井が経営していた尾去沢銅山を一方的に没収した。旧幕時代にも例を見ないほどの圧政といえよう。
村井は、銅山経営権を入手するために十二万四千八百円を費やしていた。
ここに、村井は破産同然となった。
大蔵省の強引なやり方を見ると、藩債返却云々は口実で、当初から尾去沢銅山没収をねらっていた疑いが濃い――
尾去沢銅山を没収した井上は、工部省小輔山尾庸三に命じて、これを井上家出入りの御一新後の成り上がり政商岡田平蔵に払い下げさせたのである。
その条件は、払い下げ金三万六千八円、しかも十五年賦、無利息という無茶苦茶な好条件であった。
井上は、大蔵大輔辞職後の明治六(1873)年八月、尾去沢銅山を視察、この時の視察費用も岡田が負担したことはいうまでもない。
そして、現地に「従四位井上馨所有地」という立看板を堂々と掲げるという、厚顔無恥な振舞いを行っている。
仮に、自費で購入したとしても大問題であるが、尾去沢銅山を所有したとするなら井上はそれを入手するについて一銭でも身銭を切ったか。否、であろう。
すべて公金と官権を私的に悪用したに過ぎない。
先述の毛利氏も「出入り商人岡田を隠れみのに使って銅山の私物化を図ったきわめて悪質な権力犯罪」であると断罪している。
作家。クリエイティブ・プロデューサー。JADMA(日本通信販売協会)設立に参加したマーケティングの専門家でもある。株式会社Jプロジェクト代表取締役。1946(昭和21)年、京都生まれ。近江・浅井領内佐和山城下で幼少期を過ごし、彦根藩藩校弘道館の流れをくむ高校を経て大阪外国語大学卒。主な著書に『明治維新という過ち〈改訂増補版〉』『官賊と幕臣たち』『原田伊織の晴耕雨読な日々』『夏が逝く瞬間〈新装版〉』(以上、毎日ワンズ)、『大西郷という虚像』(悟空出版)など