翌日、さすがに友人たちは立芳に遠慮して、空港まで見送るという者はいなかった。

 大抵の荷物は船便で別送していた。残っていた身の回りの品を異国の思い出としてトランクに詰め込み、ぎしぎしと踏み鳴りがする板張りの床と、開くたびにガタンと落ちそうになる木枠のガラス窓に別れを告げて、1年8ヶ月を過ごした宿舎を後にした。

 宿舎の舎監に頼んで呼んでもらったタクシーに、立芳とふたりだけで乗り込んだ。車の中で彼女は一言も口をきかず、ただ隣に座る隆嗣の手を握り締めていた。

 近代的な浦東空港の開業まではあと10年待たねばならず、国際線国内線ともに上海の玄関口となっていたのは虹橋空港だった。そんなに大きな空港ではなかったが、当時は国内移動手段として飛行機はまだ一般的ではなく、国際線のフライトも日に数えるほどしかなかったので、その規模で十分賄えていた。

 装飾も照明も少なく、共産国家の暗いイメージそのままの虹橋空港の中、隆嗣は国際線のカウンターで大きなトランクケースを担ぎ上げ、預け荷物として差し出した。街中のデパートの店員と同様に、国営航空会社のスタッフは舌打ちをしながら面倒臭そうにそれを受け取り、隆嗣のチケットを必要以上にじっくりと眺めている。

 長い間このような状況に慣らされてきた隆嗣は、ボーディングパスをもらうまで相手の機嫌を損ねまいと愛想笑いを続けた。

 搭乗手続きを終えた隆嗣は、後ろでじっと待っていた立芳のもとへ戻った。彼女の目元は赤く腫れており、昨夜流した涙がどれほどであったのかを物語っている。

「日本に帰ったらバイトをするよ、夏休みには上海へ戻ってくる。2、3週間は滞在できるようにするつもりだ」

 できるだけ感情を抑えた話し方を心掛けた。

「無理しないで、ちゃんと勉強もしなきゃダメよ」

 俯きかげんの立芳が、気遣いの言葉を送る。

「判ってるさ。大学を卒業して就職を決める。そして、1年後には君を迎えに来るよ」

 頷く立芳。彼女はそっと隆嗣のジャケットの襟に手を添え、小さな声で訴えた。

「それと、ちゃんと約束は守ってね」

「ああ、週に一度は必ず手紙を書くよ。君からの便りも楽しみにしている」

 堪りかねた立芳が隆嗣のジャケットの襟を両手で掴み、胸に顔を埋めて肩を小刻みに震わせ始めた。

「必ず迎えに来る。信じて待っていてほしい」

「もちろん、あなたを信じて待っているわ」

 隆嗣の心臓に向かって誓うように立芳が呟いた。隆嗣は彼女の背中に回した両手で、そのぬくもりを掌に記憶させるためにさすり続けた。幾度も振り返りながらゲートを通り抜ける隆嗣と、ゲート手前で手を振り続ける立芳。すでに周りへの気遣いも忘れ、ふたりとも頬に流れる涙をそのままにしていた。

 結局、それが最後となってしまった。

(つづく)