政府としては、生の情報をすべて出してしまったら、情報をうまく咀嚼できない人が多く無用なパニックを引き起こすという言い分でしょう。

 しかし、そうとも言い切れない事例はいくらでもあります。高学歴で社会性も高く、情報のリテラシーも高かった人が、原発事故が発生したとたんアメリカに逃げてしまったなどという例は、珍しい話ではありません。

 どういう人が、どういう情報が入ったときに、どのように振る舞い出すか。

 実のところ、これは予測不可能です。ただし、予測不可能だから情報を隠蔽するというのとは、話の筋が違います。

 私には、強いリーダーシップと情報の隠蔽が、イコールで結ばれているような気がしてなりません。国民は強いリーダーシップに期待しながら、真実の開示と希望の表明の狭間で揺れているように見えます。

 医学の世界では「バッドニュースをいかにして患者に伝えるか」という点にこころが砕かれています。

 確かに、多くの人はがんを告知されたときに激しく動揺し、ある種のパニックに陥ります。しかし、現代の医療現場では、よほどのことがない限りほとんどすべての患者にがんを告知しています。

 それは、医療裁判のリスクを避けるというネガティブな意味合いもあります。またこれだけ情報検索がしやすい社会となり、事実を伏せるのが難しくなっている一面もあります。とはいえ、告知をしたほうが患者の治療に対する意欲が高まり、前向きな姿勢が生まれることが多いのも事実です。病名を隠蔽することで患者に猜疑心が生じ、治療の効果を半減させてしまうことからも、医療の現場では患者に病名を隠さない方向へ考え方をシフトしてきたのです。

果たしてパニックは防がなければならないのか
パニックに陥ったからこそつながれた命もある

 私たちがこれまで持っていた常識では、パニックは「防がなければならない」ものでした。ところが、私は最近はそうとも限らないと思うようになりました。

 震災当日、私はとある古いビルで女性経営者に向けた講演をしていました。地震が発生したのは、まさにそのときです。