強者に屈従しないシンプルな秘訣

小西史彦(こにし・ふみひこ) 1944年生まれ。1966年東京薬科大学卒業。日米会話学院で英会話を学ぶ。1968年、明治百年を記念する国家事業である「青年の船」に乗りアジア各国を回り、マレーシアへの移住を決意。1年間、マラヤ大学交換留学を経て、華僑が経営するシンガポールの商社に就職。73年、マレーシアのペナン島で、たったひとりで商社を起業(現テクスケム・リソーセズ)。その後、さまざまな事業を成功に導き、93年にはマレーシア証券取引所に上場。製造業やサービス業約45社を傘下に置く一大企業グループに育て上げ、アジア有数の大富豪となる。2007年、マレーシアの経済発展に貢献したとして同国国王から、民間人では最高位の貴族の称号「タンスリ」を授与。現在は、テクスケム・リソーセズ会長。既存事業の経営はすべて社著兼CEOに任せ、自身は新規事業の立ち上げに采配を振るっている。著書に『マレーシア大富豪の教え』(ダイヤモンド社)。

 そして、立ち上がってテーブルに厚さ10cmほどの契約書をバーンと叩きつけて、
「やめた! やめた! やめた!」
 と大声を出しました。すると、法務室長が慌てて「そうじゃない。そうじゃないんだ。ちょっと待ってくれ」ととりなしました。

 それでも私は、「今さら何を言ってるんですか? やめた。この合弁はしない」と突き放しました。そして、これまでの交渉をねぎらい、お礼を伝えたうえで、「この合弁は取りやめることにします。もう帰ります」と言うと、室内はシーンとなり、弁護士も真っ青になっていました。

 構わず、私はカバンをもって会議室を退出。室内からガタガタッと椅子の音が聞こえ、ドアをバーンと開く音が続きました。そして、バタバタと数人が追いかけてきて、「ちょっと待ってください。お願いです」とすがりついてきました。

 私は立ち止まって、こう言いました。
「こんなバカな話はないでしょう。申し訳ないが、この話は終わりです」
「最後の最後のお願いです。なんとか、常務に会っていただけませんか?」
「もちろん、いいですよ。もうやめるんだから、最後にちゃんとご挨拶はしますよ」

 そして、常務室に連れていかれました。企画課長が常務に経緯を説明。じっと聞いていた常務は、徐々に顔を紅潮させました。そして、課長の話をさえぎって怒鳴りました。
「おまえら、何やってんだ! バカヤロー!」

 聞くと、合弁離脱時の株価算定が盛り込まれていない契約内容で常務はすでに決裁をしていたのです。要するに、法務室長のスタンドプレイ。少しでも有利な条件を付け加えることで、手柄を上げようとしたのです。そして、やはりあの男が弁護士であることも判明。法務室長が独断で同席させていたのです。

 常務は、私に平謝り。「小西さん、たいへん申し訳なかった。小西さんが言うことはもっともだ」と言ってくれました。こうして、無事にフェアな条件で契約書の締結をすることができたのです。

 このようなケースを、私はいくつも経験してきました。
 相手の要望を踏まえて、フェアな提案を行う。相手がエゴを出してきても、可能な範囲でそのエゴを叶えられるように工夫をする。しかし、そのエゴが一線を越えたときには、決然と交渉決裂を突きつける。これが、弱者が強者に勝つ交渉術の鉄則なのです。

 ですから、交渉するときには、どんな相手に対しても「自分の最低ラインはここだ」と、“deal breaking line”を明確にしておくべきです。「これ」を越えたら終わりだと「思う」ことがきわめて重要なのです。これがないと、相手のエゴにずるずると引っ張られて際限がなくなってしまうでしょう。

「最終ラインを決める」とは、すなわちひとつの覚悟をもって交渉するということです。この覚悟があれば、相手がどんなに強くても交渉に迫力が出てきます。押し負けしなくなるのです。

 ただし、この覚悟は単なる精神論ではありません。重要なのは、その交渉に“一点張り”しないことです。その交渉が決裂してもいいように、他の選択肢を用意しておくのです。その余裕があれば、アンフェアな交渉を突っぱねても何も脅かされることはありません。常に、プランA、プランB、プランCと最低3つのシナリオをもって生きていれば、何かに屈従する必要などないのです。