若手時代、2軍でプレーしていると、ベテラン選手が1軍から落とされてくることがありました。「2軍に落とされはしたけど、俺はお前らとは違う。練習はマイペースでやらせてもらうからな」といった態度で、威張っている選手も少なくありません。
「カッコ悪いな」
それが僕の率直な感想でした。ベテラン選手のそういった態度が、チーム全体の士気を確実に下げていたのです。
一度レギュラーになりながら、低迷して出場機会を失った2009年の僕は、あの頃カッコ悪いと思っていた選手たちと、ほぼ同じ境遇です。「俺は違う!」と言い張るためにやれることはひとつ―、めげずにトレーニングに励むしかありませんでした。
結果が出ないときというのは、何をやってもダメな「流れ」にあります。無理をすると、あらぬ方向へ流されてしまいますが、そのときできることを最低限やっていれば、後退するスピードを遅らせることができます。うまくすれば、その場に踏みとどまれるかもしれません。トレーニングに励んだのには、そんな狙いもありました。
とはいうものの、いくら練習に励んでも調子は上がらず、2010年は椎間板ヘルニアでキャンプを離脱します。その後、僕は2軍の試合で復帰することになりました。
一方その頃、就任3年目の梨田監督率いる日本ハム1軍では、「レフトの選手を固定できない」という問題が浮上していました。梨田監督は、開幕から数週間でいろいろな選手を試していたものの、どうもしっくりこなかったようです。1軍はBクラスで低迷し、借金は10くらいあって負け越していました。
やがて、悩み抜いた梨田監督は、こう言ってくれたそうです。
「やっぱり稀哲だな。調子はどうなんだ?」
ですがそのとき、半年間、実戦から離れていたので、1軍に出られる状況ではありませんでした。僕は2軍の試合に4試合出ただけで、ヒットは1本も打てていません。いきなり1軍に呼ばれて、結果を出せるようなコンディションでもありません。そんな僕に、監督はこんなふうに声をかけてくれました。
「とりあえず、一度ベンチに入ってくれないか。いてくれるだけでいいから」
チームが厳しい状況のなか、僕に声をかけてくれたことがめちゃくちゃうれしかったことを覚えています。
僕は「いるだけでいいなら」と、梨田監督の呼びかけに応じ、2010年4月16日の埼玉西武ライオンズ戦で、久々の1軍ベンチ入りを果たしました。
試合前、福良淳一コーチからは「スタメンでいける?」と打診されました。しかし、ライオンズのピッチャーは絶好調のエース、涌井秀章選手です。
「スタメンは無理ですよ。ピッチャー、涌井じゃないですか! 正直、当たらないと思います」
案の定、かすりもしませんでした。
その日は代打からの出場でしたが、翌々日からは腹を括って、スタメンに復帰させてもらいました。自分なりの全力を出していったつもりです。
同じ年の7月に、バントで右手薬指を骨折したときには、梨田監督から直接こう言われました。
「10日で戻ってこれないか?」
「はい!」
この状況、わかりやすく例えるなら、新入社員が社長に声をかけられたようなものです。普通は、2軍で出てコンディションを確認してから出るものですが、それを飛ばして梨田監督が必要としてくれたことに、僕の気持ちは奮い立ちました。
トレーナー陣から「ファームで調整してからにするべきだ」と猛反発を食らいましたが、僕は骨が折れた状態で試合に復帰したのです。
それにしてもなぜ、梨田監督は、そこまで僕を信頼してくれたのでしょう。それはおそらく、苦しかった2009年をめげずに乗り越えようとする僕の姿が、梨田監督にとって印象的だったからだろうと思っています。
苦しかったときのがんばりは、いつか信頼となって報われるのだと、僕の野球人生を象徴するかたちとなって表れたのです。