ラウンドワン社長 杉野公彦
Photo by Toru Miyagawa

 大学2年目も終盤にさしかかったある日。杉野公彦は、したためた100枚以上に及ぶ分厚いレポートを提出しようとしていた。向かった先は大学の研究室ではない。1年前にローラースケート場を開いた父親の元だった。

 3人兄弟の末っ子の「事業計画書」に父親が付けた“成績”は「可」。現在、109店舗に年間4000万人が来客する国内最大の複合アミューズメント会社、ラウンドワンが産声を上げた瞬間だった。

 当時、父親の経営するスケート場は不振にあえいでいた。開店半年で閑古鳥が鳴き、赤字は7000万円にふくらんでいた。

「経営を立て直すには、暇な大学生を集める工夫がいる──」

 スケート場で店番をしていた杉野は、密かに事業計画を練り始めた。

 たどり着いた答えが、スケート場の面積を半分に減らし、空いたスペースにボウリング場やゲームセンター、ビリヤードなど、思いつく限りの屋内型アミューズメント設備を複合的に詰め込むこと。現在のラウンドワンの原型だ。

 とはいえ、設備投資には分不相応のカネがかかる。渋る父親が息子に課したのが、冒頭の事業計画書だった。

「事業計画といっても、子どもの小づかい帳のような代物。だが、ラウンドワンの原点だ」と杉野は苦笑を交え振り返る。

 1982年、父親から2000万円の資金提供を受け、中古のボウリング機を導入したものの、自らペンキを塗り、空調も満足に効かないようなハンドメードの店舗だった。

 それでも杉野の読みは、当たった。年間1800万円だったスケート場の売り上げは、屋号をラウンドワンに改めた同年に4300万円へと倍増。以降も8400万円、1億2000万円と毎年うなぎ登りとなった。

 閉店時間はスケート場時代の午後7時から、午後10時、午前2時と延び続け、年中無休で毎日15時間以上働いた。

 父親に支払うテナント料は、スケート場時代の売り上げと同額の月150万円と決して安くはなかった。杉野は「参っちゃうよね」と笑うが、業績が伸びるにつれ、最後は月550万円を払っていたという。

業界を一変させるも
リーマンショックにより初の赤字に転落

 無欲で始めた1号店を軌道に乗せ、「初めて事業欲が出てきた」という杉野は、地元・大阪で2号店、3号店を次々にオープンした。

 転機となったのは、4番目に開いた「泉北店」だ。

 ベンチャーキャピタルから「上場を視野に」と資金提供を持ちかけられ、計20億円を調達。初めて自己所有の土地建物で4号店をオープンさせた。

 そして97年、大証2部に上場、全国展開への橋頭保として横浜への進出を果たした。