「企業が社会や人間のために働くには、事業体として機能できなければならない。したがって、利益をあげつつ財サービスを生み出すことが、企業を評価するうえでの必須の尺度である」(ドラッカー名著集(11)『企業とは何か』)
ドラッカーは、いかなる経緯でマネジメントを体系化し、“マネジメントの父”とされるようになったのか。もともとは、1909年にウィーンで生まれたオーストリア人である。ギムナジウムを卒業した後は、ドイツのハンブルク大学に籍を置きながら、商社マン見習いとして自活した。
1年半ほどしてフランクフルト大学に籍を移し、米国系の証券会社にアナリスト見習いの職を得る。株式市場の大暴落に遭遇して職を失ったが、ただちに地元の新聞社で国際経済担当の記者となる。
やがて、博士号を取得して無給の助手をしていた頃に、ヒトラーの政権獲得に逢着し、文筆家としても教員としても、ドイツでは将来のないことを察知する。そしてフランクフルトを去る最後の夜、新聞社の先輩記者からナチスへの入党を誘われ、世直しに手を貸すよう頼まれる。
その夜、目の前に浮かんだヨーロッパの景色、経済を至上のものとする資本主義と社会主義の失敗がファシズムを招いたことを描写して分析したものが、6年後に処女作『「経済人」の終わり』として発表され、後の英国首相チャーチルから絶賛を受ける。
3年後の42年には、第二作『産業人の未来』において、経済至上主義の後を継ぐべきものとして、産業社会を提示する。これを読んだ当時世界最大の自動車メーカー・GMの幹部に請われ、同社を1年半にわたり調査・分析した結果が、46年にまとめられた『企業とは何か』だった。ただちに世界中で組織改革の教科書となる。
若い頃のドラッカーは、政治学者である。しかし、『経済人』『産業人』『企業とは何か』の政治三部作が、じつはドラッカー経営学の基盤となった。そこから、『現代の経営』『創造する経営者』『経営者の条件』の経営三部作が生まれ、われわれ人類にとってのマネジメントが体系化されたのだった。
「企業は社会的組織である。それは、共通の目的に向けた一人ひとりの人間の活動を組織化するための道具である」(『企業とは何か』)