まずは、取締役会の反体制派の二人、具体的にはロイ E. ディズニーとスタンリー・ゴールドにかけ合わなければなりませんでした。これは、前任者のマイケル・アイズナーにも、不可能とはいえないまでもやっかいなことだったでしょう。なぜなら、彼に落ち度があったわけではないのですが、彼らの間の傷ついた関係はもはや修復不可能になっていたからです。
私は新顔でした。旧体制派の一人と見られてはいましたが、みずからを仲裁役と見立てることができました。そして実際、その役割を果たしました。そのかいあって、経営をめぐる確執は過去のものになりました。
それは御社にとって、どのような意味がありましたか。
大きな意味がありました。なぜなら、確執は企業にとってきわめて破壊的で、気を逸らせるものだからです。争いの最中にある時は、生産的な活動を犠牲にして戦いを繰り広げているわけですから、会社を経営することが非常に難しくなります。私は、戦いを終結させようと懸命に取り組みました。そして経営をめぐる確執を終わらせた時、社内に安堵感が広がりました。
すぐに正す必要があると感じた物事の一例を挙げていただけますか。
当社はかつて技術の変化を、チャンスというよりもむしろ脅威ととらえていました。私がその見方を逆転させました。というのも、私は心の底から「当社は技術を味方とすべきである」と信じているからです。実際、創設者のウォルト・ディズニーは技術を大いに信頼していたのですから、技術は本来、当社の一部だったのです。
あなたは、伝統の「重荷」について苦言を呈したと伝えられています。いまなお、どの程度、その重荷に抵抗しているのでしょうか。
ディズニーでは長年にわたり、現代主義者と伝統主義者の間で緊張が続いてきました。私は、伝統を重んじることのみならず、確実に進化を続けることの重要性を信じる者です。伝統にこだわりすぎれば、革新性が低下しがちです。当社ではいまでも時々、筋金入りの伝統主義者たちが立ちはだかる場合があります。
それでは、どのようにして、老舗ブランドを守ることと革新的であることのバランスを図るのでしょうか。
伝統がイノベーションの妨げになることを許すわけにはいきません。過去を重んじる必要はありますが、おのれの過去をあがめることは間違っています。私はこの点について、社内でかなり口を酸っぱくして主張しています。
たとえば、二次元アニメ画像対CGI(コンピュータ生成画像)を例に挙げましょう。「二次元は概して過去のものであり、コンピュータによって生み出されるアニメこそ、現在と未来のものである」という意見は冒涜なのでしょうか。CGIの要は、観る人たちのためにこれまで以上の経験を生み出すことにあります。そしてこれには三次元のものも含まれます。
守旧派と革新派の間の軋轢を示す事例として、ほかにどのようなものがありますか。
当社では、ミッキー・マウスについてさまざまな議論が交わされています。たとえば、ミッキーの見た目はどうあるべきか。どのように動くべきか。1920年代に生み出されたキャラクターであり、現在は世界ナンバーワンのキャラクター商品になっているミッキーを、どのように特徴づけ、またその今日的な意味をいかに維持するのか。「ミッキーをいじることはできない」と主張する一派もいます。
さて、実際はどうなんでしょうか。ウォルト・ディズニーはそれをやってのけました。彼はイノベーションを生み出し続けたのです。「ウォルト・ディズニーのやり方をすればよい」とひたすら信じている人たちもいますが、それはちょっとばかげています。
彼は1966年に亡くなりました。もし我々が彼のやり方に徹底的にこだわるならば、当社は、おそらく2010年代というより、むしろ1960年代の企業のように見えることでしょう。
それは、アメリカ合衆国憲法の厳密な解釈を求める人の考え方に相通ずるものがあるようですね。ところで、ミッキーはどのように変わりつつあるのでしょうか。
ミッキーについて現在注目している属性は、ウォルト・ディズニーが最初に思い描いていた属性とぴったり一致します。
そもそものミッキーは、いたずら好きで向こう見ずでした。ところがミッキーが大変な人気者になった時、その振る舞い方が子どもたちに影響を与えるおそれが出てきたため、彼はこのキャラクターの好ましくない部分を矯正しました。
そこでミッキーの性格を抑える一方で、ドナルド・ダックを登場させました。そしてドナルドを、いたずら好きで怒りっぽい問題児というキャラクターにしたのです。
やがてミッキーは万人を楽しませるエンタテイナー、もてなし役、企業のシンボルとしての存在感を強めることになり、キャラクターのおもしろみは弱まりました。
そして我々は議論の末、ミッキーを初期のキャラクターに戻す必要があるという結論に達しました。