心が震えるほどありがたかったが、求められるパフォーマンスを演じる自分自身の姿は、とてもじゃないが想像できなかった。断腸の思いを込めて断りを入れ、指揮官に了承してもらった。

「悪夢」の連鎖

 電話を切った直後。労をねぎらってきた夫人が流した涙にもらい泣きした。事情をよく理解していない、2人の幼い子どもたちの笑顔に救われたと、平山さんは引退会見の席で明かしている。

「試合に出られなかった時も、家に帰って子どもの寝顔を見ると、落ち込んでなんかいられないと思いますよね。長男はサッカー選手にするというか、サッカー選手になりたいと言うように、サッカーだけを教えて育てます。だから記録だけでなく、子どもたちの記憶に残るように頑張りたいですね」

 笑顔を浮かべながらこう話してくれたのは、ワールドカップ・ブラジル大会でJ1が中断していた2014年の夏だった。長男は当時2歳になる直前。その後の平山さんのサッカー人生の軌跡をたどれば、記憶に残る、という願いはおそらくかなえられなかったはずだ。

 それでも引退を決意するに至ったのは、手術を要するほどの大ケガが左くるぶしだけにとどまらなかったからだ。悪夢の連鎖の記憶をたどっていくと、東日本大震災の発生ですべての公式戦が中断していた2011年4月10日に行き着く。

 当時J2を戦っていたFC東京は、栃木SCとの練習試合に臨んでいた。そして、味方のスルーパスに反応し、相手ゴール前に抜け出した平山さんは、飛び出してきたゴールキーパーと激突。これまで経験したことのない痛みを右足のすねに覚えた。

 悪い予感は的中する。右脛骨及び腓骨の骨折。全治まで最長で6ヵ月はかかる重症であると告げられた。結局、2011シーズンは震災が発生する6日前の3月5日に行われた、サガン鳥栖との開幕戦に先発フル出場しただけで終わった。

「半年後にはサッカーをやっているかな、という感じだったんですけれども。腓骨と比べて脛骨がくっつくのが遅かった。ホントに綺麗に折れていたので。結局、練習復帰が年末でしたからね」

 1年でJ1復帰を果たした2012シーズン。短い時間ながらも途中出場でリーグ戦のピッチに3度立ち、復活への青写真を描き始めた矢先の5月1日に、練習中の接触で再び右足のすねを痛める。腓骨の骨挫傷と短腓骨筋挫傷。復帰を果たしたのは、12月1日のJ1最終節の後半36分だった。

 当時の平山さんは20歳代の半ば。選手として飛躍を遂げる時期に2年間で5試合、合計で109分間しかピッチに立てなかった。2009シーズンはヤマザキナビスコカップ制覇の原動力となり、翌年1月には若手中心の編成となった日本代表に初招集。デビュー戦でハットトリックを達成するなど、右肩上がりの軌跡を描き始めていたサッカー人生は急停止を余儀なくされる。