「バッシング」だけがメディアの使命ではないはずだ

日々、誰かが叩かれる社会

 直近の財務省事務次官のセクハラ疑惑による辞任問題に加え、公文書管理、森友・加計問題など、政治行政にまつわる報道が注目を浴び、批判の矢面に立つ人が後を絶たない。報道領域を政治行政だけではなく、芸能人やスポーツ選手、著名人などに広げると、毎日、誰かがバッシングを受けることが当たり前の社会が我々の眼前にある。

 セクハラ疑惑問題では、財務省のみならずテレビ朝日、さらにはこの問題に関係する女性記者までもがバッシングの対象となり、消耗戦の様相を呈してきた。バッシングは社会に憎しみを生み、憎しみはさらなる負の連鎖を生む。今回の騒動が関係者に対するさらなるバッシング合戦へと発展しないことを祈る一方で、バッシングという事象に、そろそろ日本社会が正面から向き合う時期が来ているのではないかと感じている。

公権力の監視というスタンス

 報道によるアウトプットの形には大きく3つのパターンがある。記者会見などから得られた事実を速報で伝える「ストレートニュース」、メディアが行う独自の調査や取材をもとに事実を伝える「調査報道」。そして、事実や公知の事象に対して、媒体や著者の意見や視点を付与する「論評」がある。

 SNSなどの台頭によって、行政が対外的に発信する手段を持つようになった。元大阪府知事の橋下徹氏や、現千葉市長の熊谷俊人氏、元武雄市長の樋渡啓祐氏などに始まり、現在では多くの首長が自ら行政の取り組みを発信する機会が増え、メディアが「ストレートニュース」を発信する価値は相対的に低下している。その結果、「調査報道」と「論評」という役割がメディアに強く期待されるようになりつつある。