TBSラジオ『Session-22』でパーソナリティを務め、日々、日本の課題に向き合い続けてきた荻上チキによる新刊『日本の大問題――残酷な日本の未来を変える22の方法』が7月19日に刊行された。【経済】【政治】【外交】【治安】【メディア】【教育】――どこをみても「問題だらけ」のいまの日本の現状と、その未来を変えるための22の対応策がまとめられた同書のエッセンスを紹介していきます。

「中立」と「公正」は違う

 2014年11月の衆議院選挙時、自民党がNHKと民放テレビ局に対して、選挙報道の「公平中立、公正」を求める要望書を送ったことが多くのメディアで取り上げられました。具体的には、番組内容、出演者の発言回数や時間、ゲスト出演者の選定などに関して、「公平中立ならびに公正」を要望するというものでした。

 しかし、何を取り扱い、何を取り扱わないかという判断を各メディアが行う以上、メディアが「中立」であることは原理的に難しいと思います。

 もちろん、そのテーマを取り扱う際に、データを捏造して批判したり、印象操作を行うような発言を繰り返したりなど、「公正さ」が阻害されるようなコミットメントをすると反発を呼ぶでしょう。ましてや、誤報といった「問題報道」は論外です。メディアバイアスは常に存在しますし、すべてのバイアスが許されないというわけではありません。重要なのは、メディアから流れる情報にどのようなバイアスがかかっているのかが判断できるようになっているかということです。

 たとえば、各報道機関が報じるニュースには、独自取材に基づくものではなく、政府、省庁、警察、役所といった、官公庁によって発表されたものが多く含まれます。しかし、官公庁が発表する資料には、誤りも多く含まれますし、各省の「省益」にデータが左右されたりもしますし、都合の悪い情報は表に出されません。

 だからこそメディアには、「国民の得(知る権利)」を守るために、「国家の得」によって何か誤魔化されていることはないか、徹底的にチェックする役割が期待されるわけです。いうなれば、メディアには「国民の側」という「非中立的な立場」から、「公正な報道」を行うことが期待されているわけです。

 たとえば2017年以降、財務省や防衛省など、政府の公文書に関するさまざまな疑惑が報道されました。政府は当初、それらの疑惑を軽んじていたのか、野党の求める「徹底調査」に応じなかった。それが後に、さまざまな文書の存在が明らかになるにつれ、行政運営能力(ガバナンス)への不信感が高まり、支持率が急落する事態に繋がりました。

メディアは「非中立的な立場」から「公正な報道」を行う

 重要なのは、この時のメディアの役割をどのように理解するか、です。疑惑を追及するメディアの姿勢に対し、「挙証責任」「推定無罪」「悪魔の証明」という言葉が向けられることがしばしばありました。つまり、「疑わしいから説明しろ」ではなく「ここが問題だ」という証拠を突きつけろ。根拠が不十分なのであれば、無罪であるという前提で対応しろ。ないことを証明するのは不可能なのだから、メディアは疑惑だけで報じるな、というようなことです。中には、「その情報を提供した人はどうどうと名乗り出ればいい」という言説もありました。情報源の秘匿原則、公益通報の意義というものが、浸透していないのだと思わされるエピソードです。

 ジャーナリズムの役割のみならず、権力と国民との非対称性について敏感であることが重要です。政府は、国民から一時的に権力を預かって仕事をする。だから、その仕事のあり方については、徹底的な説明責任が求められる。そのために、公文書管理や情報公開の仕組みなどが必要になってくるのです。

 他方で、大きな権力は、その立場をもって、不都合な事実を隠蔽したりすることも可能です。実際、2018年には、森友学園問題の疑惑追及の過程で、財務省が決裁文書を改ざんしていたことが発覚しました。他にも、あるはずの文書を「ない」と答えるようなこともあるわけです。

 こうした場合、メディアがすべての文書をあらかじめ手に入れて証明するという「挙証責任」を果たすのは困難です。文書を独占的に保有し、その公開の範囲などをコントロールできる巨大な権力に対して、断片的な証言や資料などを積み上げる仕方で、疑惑があれば追及していく。そうした疑問が投げかけられた時、説明責任は政府の側にある。政府しかアクセスできない文書などについて、どのように書かれているのか、どのような意思決定があったのかを確認し、後ろ暗いことがなければすべてを直ちにオープンにすればいい。それができないのであれば、疑惑に対して丁寧な説明をしたことにはならないわけです。

 もともと「推定無罪」というのは、刑事事件において、巨大な権力を有している警察や司法権力に対して、市民の権利を守るための法則です。「疑わしきは被告人の利益に」、つまりきっちりと犯人であることを合理的に証明できない場合は罪に問うてはならない、とするものです。他方で行政の疑惑を追及する際には、権力構造は逆転します。ですから、刑事事件の「推定無罪」原則とは文脈が異なるわけです。

 その説明責任は、ないことを証明する、というような「悪魔の証明」ではありません。意思決定のプロセスを適切に説明できるようにしていなければ、疑惑として追及される。だから、メディアや野党の要望に応じ、指定された文書を開示したり、参考人を呼んで供述させたりすることで、できる限りの説明を尽くす。行政には常に、「疑惑がないことの証明」ではなく「行政プロセスの透明化」が求められている。それが不十分なのであれば、疑惑の追及を通じて、行政への信任や新たな立法の必要性を問う。

 もちろん、メディアの側からは、疑惑を問う以上、当事者の証言やほかの事例との比較を通じて、説得力のある問題提起を行う必要があります。行政の動きだけでなく、日常的に出されている官公庁のデータにも、さまざまな疑義があるのが常ですから。