TBSラジオ『Session-22』でパーソナリティを務め、日々、日本の課題に向き合い続けてきた荻上チキによる新刊『日本の大問題――残酷な日本の未来を変える22の方法』が7月19日に刊行された。【経済】【政治】【外交】【治安】【メディア】【教育】――どこをみても「問題だらけ」のいまの日本の現状と、その未来を変えるための22の対応策がまとめられた同書のエッセンスを紹介していきます。

「ルワンダの悲劇」が突きつけたPKOの課題

 国連を中心とした安全保障のあり方は、さまざまな事態に対する反省を繰り返しながら、時代とともに少しずつ変化していきます。とりわけ、ここ30年ぐらいでは、1994年に起きたルワンダの大量虐殺が国連に大きな反省をせまりました。ルワンダでは、フツ族とツチ族の対立を背景にして、数十万人が虐殺される悲惨な内戦が繰り広げられたのです。

 国連がありながら、数十万人規模の虐殺を短期間で実行させてしまった。しかも、この大量虐殺は国家が主導したものではなく、ラジオが強力な動員の武器になって、住民のなかで虐殺がどんどん加速していった。

 もともと国連憲章では、このような紛争や差別を抑止しなければいけないと謳っていたにもかかわらず、ルワンダの悲劇を止めることができなかった。そこで同じ過ちを繰り返さないために、国連PKOは、国家でも準国家でもないような集団に対応する必要が出てきました。

 その典型例が南スーダンです。反政府軍が政府を攻撃することで治安が悪化した結果、非人道的な戦闘行為を相互に繰り広げている。国連がこの状況を収束させるためには、武力による介入が必要です。そうしなければ、戦闘に巻き込まれる市民を守りながら、道路や橋などのインフラを作ることもできない。あるいは、ゲリラを取り締まる警察行為すらできない。つまり国連PKOはルワンダの反省にもとづいて、「住民の保護」のための武力行使は必要だという認識に変化しているわけです。

 そういったなかで、自衛隊もPKOとして南スーダンに派遣されましたが、2017年3月に政府は南スーダンからの自衛隊撤退を表明しました。

 この間、日本のPKO派遣の原則と、国連のPKOの間に大きな齟齬が生まれていることが明らかになりました。端的に言えば、後方支援や非戦闘地域での活動に限定する日本のPKO派遣原則では、治安が悪化しても撤退しない現代的なPKOの現場に自衛隊を派遣することはきわめて困難なのです。

 加えて、日本の自衛隊には「軍法」がないことも大きな課題として指摘されています。国連PKOに参加する以上、派遣された地域で銃口を向けられる可能性がある。それに対して、PKOが「誤射」「誤爆」をしてしまうことも当然、想定しておかなくてはなりません。

 この場合、PKO部隊はどのように裁かれるのか。南スーダンのような現地政府は、国連と地位協定を結んでいるため、PKO部隊に対する裁判権を持っていません。同時に、国連自身も軍事法廷システムを持っていない。そこで国連は、PKO隊員が戦争犯罪を犯した場合には、各国の軍法で裁くように義務付けています。ところが日本には、この軍法が存在しないため、義務を遂行できないのです。

保守とリベラル、それぞれの「ねじれ」

 このように国連の姿勢が大きく変化するなかで、日本はどのようにグローバルな人道的問題、社会的問題に対応していくのかが問われています。

 しかし、そこで問題となるのが、保守と左派がそれぞれに抱える「ねじれ」です。
 日本の戦後は、戦争に対する反省から始まりました。日本を荒廃させた総力戦をもうやってはならない。徴兵制や軍隊はもうたくさんだという感覚を、戦後の多くの日本人が共有し、それが自衛隊反対や9条を守れという信条に結びついていったわけです。

「9条があれば日本は平和であり続ける」というのは信仰にすぎないとよく揶揄されますが、そんなに単純な話ではありません。軍隊を持つ行為が日本の平和を脅かした過去があるから、軍隊を持つことで平和を維持するというロジックに対する信頼をまだ持てていないわけです。消極的護憲論、といってもいいでしょう。

 だから、よく言えば狡知に長けた、悪く言えば、矛盾した対応をし続けた。つまり戦争を否定しながらも、アメリカの軍には頼る。そのことによって日本は平和や経済発展を享受できるという判断があった。戦後、吉田茂が打ち出した「吉田ドクトリン」として知られる外交方針です。

 これは矛盾ではあると同時に、狡賢さでもありました。というのも、当時の親米保守はアメリカをうまく利用して、日本は経済大国として成長することに集中しましょうというしたたかな計算があったからです。アメリカが作った憲法なんだから、私たちは軍隊を持てません。だから、日本は独自のプレゼンスを発揮していくというスタンスをとっていたのです。

 ところが現在の保守派は、アメリカからの押しつけ憲法があるために、アメリカに貢献できない。だから改憲しようというねじれたロジックに変質してしまっている。

 他方で左派、政治的リベラルは、2章でも触れたように、一国主義的リベラル、自国ファーストのリベラルになってしまっている面があります。「反戦」のためのPKO活動をどう実現するのかをあいまいにしたままです。もともとリベラルは、国際協調主義や普遍的な寛容を掲げるものでした。左翼も、労働者の世界的団結がテーマだったでしょう。それが今は、反グローバリズムという文脈で、その実、普遍的な人道主義を抑制する議論へと傾いてしまっているのです。