報道内容が間違っていても
マスコミがなかなか謝罪しない理由

 これは、共産主義勢力との戦いを想定したものだが、GHQの新聞課長という、いわば「報道」の方向性を示した「家元」のような存在が「新聞は“悪”と闘え『中立』は卑怯の代名詞」(同紙)と熱弁を振るっていた意味は大きい。

 個人的には、この時代に新聞人たちに行われた「刷り込み」が、日本の「報道」を「中立公正」ではなく「悪との戦い」という方向に決してしまったのではないかと考えている。

 いずれにせよ、「インボデン家元」に言われた、「悪と闘え」という教えが現代のマスコミに脈々と受け継がれていることは、彼らが自分たちを「正義」と信じて疑わず、どんなに追い込まれても決して「非」を認めない、という事実が雄弁に語っている。

 政治家や民間企業などが不祥事を起こせば、すぐに謝罪会見を開け、と騒ぐわりに、マスコミは滅多に頭を下げない。これは、新人記者が「お詫び文」を出さないよう徹底的に釘をさされるように、「社会からの信頼」を重視しているからだという人がいるが、そうではない。

 自分の信じることが世界の全てである「求道者」にとって、信じることを曲げてまで頭を下げることは「死」と同じなのだ。

 茶道の大成者である千利休の有名なエピソードがある。天下人秀吉に逆らって、罪に問われた際に、このように述べたという。

 「頭を下げて守れるものもあれば、頭を下げる故に守れないものもございます」

 権力に屈して自分を否定したら、茶の味が穢(けが)れるというわけだ。同じく「道」を名乗るマスコミも、「報道」を貶めようとする「悪」に屈してしまうと、自分たちのペンが穢れると思っている。自分たちを特権階級だとか勘違いしているわけでも、責任逃れで保身をしたいわけではない。

 「報道」とは、そもそも頭を下げてはならぬものなのだ。