『週刊ダイヤモンド9月1日号』の第1特集は、「自動車・電機・IT 40年で完成した日中逆転の全経緯」です。今からちょうど40年前の1978年は、中国が「改革開放」を掲げた年であり、日中平和友好条約が調印された年です。日本の製造業を学ぶところから、中国の製造業の進化が始まりました。それからの40年は、中国が製造強国世界一になるためにひた走った歴史ともいえます。日中逆転の製造業40年史を振り返ることで、日本の製造業が進む道を考えていきます。

 トヨタ自動車が中国との歴史的な〝和解〟に向けて動き始めている。

 トヨタは3点セットを準備している。一つ目はガソリン車を含む中国での生産拡張だ。現状の生産能力116万台から200万台以上へ引き上げる算段のようだ。

 中国は、電気自動車(EV)などの新エネルギー車(NEV)の普及に積極的で、外資がガソリン車の生産能力を拡張することは難しい。それでも、当局との交渉により、ガソリン車の能力拡大を盛り込めたことが大きい。

 二つ目は、EVの量産体制の構築だ。EVに欠かせない電池は、中国では世界最大手の寧徳時代新能源科技(CATL)から供給を受ける予定で契約を締結する。

 また、日本では協業するパナソニックと合弁で愛知県に電池工場を建設予定だ。ちなみに、この工場にはホンダの合流も検討されていたが、破談に終わったようだ。

"井戸を掘れなかった”トヨタが中国戦略に本腰を入れる。今年5月、中国の李克強首相が北海道のトヨタの生産拠点を視察。FCVの説明を興味深く聞いていたという
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 最後の三つ目は、燃料電池車(FCV)の中国展開である。

 今年5月には、中国の李克強首相が北海道苫小牧市にあるトヨタの生産拠点を視察。FCV「ミライ」の先進性をアピールした。

 中国からすれば、電動車の中核がEVなのでFCVの技術は要らない、ということにはならない。先進性の高い技術ならば、中国でどんどん導入してほしいというのが本音だ。一方のトヨタは、世界中でEVシフトが進む中、世界最大の中国市場を突破口に、FCV普及の巻き返しを狙っている。

 振り返れば、トヨタと中国との関係は、肝心なところでいつもギクシャクした。それが決定的になったのは、2017年に新エネ車の対象からハイブリッド車(HV)が外されたことだ。

 それまで、中国の大都市でエコカーを普及させる政策「十城千輌」には、エコカーの対象にHVが含まれていた。トヨタは中国江蘇省の常熟にHV専用の開発センターを建設して現地化に備えたが、はしごを外されたのだ。

 トヨタの中国での戦況は芳しくない。販売台数129万台という成績は、日系で最初に進出したホンダや、経営危機で出遅れた日産自動車の後塵を拝す。SUVの波に乗れなかった商品戦略、現地合弁会社のマネジメント体制など、その時々のトヨタの戦術に全く問題がなかったとはいえない。

 それでも、トヨタ苦戦の最大の原因を進出時のエピソードに求める中国関係者は多い。「トヨタは井戸を掘れなかったからだ──」。

雪中送炭を実践した
独VWは異例の「3社目の合弁」

”雪中送炭”を実践した独フォルクスワーゲンは、中国で特恵待遇を受け続けている。異例の「3社目の合弁」の認可を受けて、安徽江淮汽車とEVの開発・生産に着手
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 1978年に中国が改革開放を掲げてから数年後。外資の力で自動車産業の発展を目指した中国政府は、トヨタに強く現地化を求めた。だが、トヨタは首を縦に振ることはなかった。

 服部健治・日中協会理事長は、「中国のサプライヤーのレベルでは、日本から高価な部品を輸出するしかない。そんな高い車を中国で売っても利益が出ないので、第三国へ輸出するプランまで浮上したが断念した」と言う。

 当時は、日米貿易摩擦の真っただ中。トヨタ社内では、市場が立ち上がっていない中国ではなく、米国で現地化を進めることが最優先課題になっていた。

 しかし、独フォルクスワーゲン(VW)は、トヨタとは対照的な反応を示した。85年に外資の先頭を切って進出したのだ。ある元商社マンは、「中国では雪中送炭(相手が困窮しているときに救いの手を差し伸べること)が感謝される。中国が車を造りたいと言ったときに手を差し伸べたのはドイツだった」と言う。

 その後、VWは中国から特恵待遇を受け続けている。17年には、異例の「3社目の合弁」が認められ、中国企業と共同でEVを開発・生産することが決まった。

 結局、トヨタが第一汽車と合弁契約を結んだのは02年で、VWより遅れること17年。そのトヨタが、ついに中国戦略に本腰を入れる。

 鉄鋼、家電、自動車──。外資に学ぶことから始めた中国の製造業は目覚しい進歩を遂げた。現在繰り広げられている米中貿易戦争が、通商摩擦を超えてハイテク覇権争いへ突入していること自体が、中国の成長ぶりを証明している。

 日本の産業界は、掛け値なしに躍進した中国と向き合うときに来ているのではないだろうか。

新日鐡・日産・松下電器視察から
始まった中国製造業の進化

 1978年。中国の最高指導者・鄧小平氏が「改革開放」を掲げる少し前に、日本の新日本製鉄、日産自動車、松下電器産業(現・パナソニック)を訪れていました。

 鄧氏による“本気の日本視察”が改革開放政策の青写真となり、中国の製造業の進化のスタートとなったといっても過言ではありません。その後の40年。日本に学んだ中国は、圧倒的な市場規模を背景に、外資政策などのしたたかな高等戦術を繰り出し、瞬く間に、鉄鋼、電機、自動車、IT分野で頭角を現していきます。

 そして、昨年ついに習近平国家主席が、外資解禁を宣言。これは、もう外資は必要ない、中国は一人でやっていけるという勝利宣言ともいえるものです。

 これまで東南アジアなどの発展途上国でみられたような、雁行形態的に、ある程度の時間をかけて発展する「産業進化モデル」は、中国で崩れたといってもいいでしょう。進化した製造業に、今や一部では米国をも凌ぐようになったITを組み合わせることで、破壊的なイノベーションが生まれつつあります。その代表的な例が電気自動車(EV)になりそうです。中国が掲げる「製造強国世界一」の完成はすぐそこに迫っています。

 一方、79年にソニー「ウォークマン」を生み出すなど我が世の春を謳歌していた日本の電機産業は、凋落の一途を辿りました。いよいよ日本の“最後の砦”である自動車産業にも、中国発のゲームチェンジが迫っています。中国が仕掛けるクルマの電動化、IT化は「製造」「販売」に重きを置いてきた先進国主体のビジネスを崩壊させることになるでしょう。

1978年、開国。改革開放

2001年、逆転。WTO加盟

2018年、覇権。外資解禁

 本特集では、中国の製造業進化の節目ごとに「3つのステージ」に分けて、日中製造業の40年を徹底分析、日中逆転の全経緯を追いました。

 まずは現在の両国の競争力の「現在位置」を把握することで、日本製造業の進む道を模索していきます。