第9の構想は実際に作曲する30年前にもっていた!

 今も地球上で燦然と輝く交響曲第9番の構想は、いつからベートーヴェンのなかで生まれたのでしょうか。

 それは、ボン大学時代まで遡ると言われています。

 ベートーヴェンは22歳でウィーンへ公費留学するまで、ボンで生活をしていました。ボン大学では、啓蒙思想や革命思想の講義も行われていました。この町で、ベートーヴェンもフランス革命の「自由・平等・博愛」といった理念に強い影響を受けたようです。

 というのも、フランス革命は、周囲のイギリス、ドイツ、ロシア、オーストリアといった王制の国々から武力による干渉を受けますが、ボンを治めるケルン選帝侯のマクシミリアン・フランツは当初、フランス革命に対して中立を守るほどの啓蒙専制君主でした。この領主は、ボン大学の講義内容にも一切干渉しなかったそうです。

 このような「啓蒙専制」という矛盾した君主がいた理由は、近隣諸国に対抗できる国力(特に軍事力)をつけるために、啓蒙主義の掲げる理性や合理主義に根ざした諸改革を推し進める必要があったからです。その改革のひとつとして、ケルン選帝侯はアカデミー、大学、劇場、オーケストラをつくるなど、知的基盤への大きな投資を行っていました。

 ベートーヴェンは、このようなボンの知的風土に育ったのです。のちに「自由と進歩のみが芸術の世界の目的であります」(1819年の手紙)と書くほどの人物になりました(※8)

 ボン大学ではフィッシェニヒ教授によるフリードリヒ・シラー(1759~1805年)の詩作に関する文学の講義も受けている可能性があります。大学とは別に、街の読書会でシラーに触れたとも言われています。いずれにせよ、フィッシェニヒ教授は1793年1月26日付のシラー夫人に宛てた手紙にこう書きました。「(ベートーヴェンは)選帝侯によってウィーンのハイドンのもとへ派遣されました。彼はシラーの『歓喜に寄す』のすべてを作曲するでしょう(※9)」。

 シラーの「歓喜に寄す」こそ第9の合唱の歌詞であり、ベートーヴェンが22歳で第9を着想していた証拠として知られている手紙です。

「幾百万の人びとよ! この接吻を全世界に」と謳うシラーの詩は、自由と力強い進歩と愛を描く詩です。ベートーヴェンは音楽家人生を貫く思想の軸を、ボンの町で手に入れたのでしょう。

 青年期の着想から30年、折に触れて楽想をメモしていましたが、様々に記録していたモチーフを統合して、本格的に第9に着手したのは1823年でした。これまでの交響曲の様式に楽器を増やし、独唱と合唱を入れた1時間10分もかかる大作ですが、わずか1年で完成し、コラム冒頭に紹介したとおり1824年にウィーンで初演しました。ベートーヴェンが難聴となったのは1798年と言われており、第9初演時にはほとんど聴こえなかったようです。それでも完全無欠の交響曲が仕上がったのは、学生の時に得た思想の軸が、まったくぶれなかったからだと言えるのではないでしょうか。

 この第9は、実は海外では日本ほど頻繁に演奏されることはありません。特に神聖な曲と考えられているためでしょう。

 世界で演奏された事例として有名なのは、ベルリンの壁が崩れて東西ドイツが統一されたときの第9の演奏会です。東西ドイツ、敵だったイギリス、フランス、さらにベルリンの壁のきっかけとなったアメリカ、ソ連(当時)の6つのオーケストラが、名指揮者レナード・バーンスタインのもと集結するという奇跡的な演奏会でした。バーンスタインは東西ドイツ統一を祝って、「Freude!(歓喜よ!)」という歌詞を「Freiheit!(自由だ!)」に置き換えて歌わせました(※10)

 このことをベートーヴェンが知ったら、自分の願いはようやくかなった、と涙を流して喜んだでしょう。

※7 H.C.ロビンズ・ランドン『ベートーヴェン 偉大な創造の生涯』深沢俊訳、属啓成監修、新時代社、1970年
※8 小松雄一郎編『新編ベートーヴェンの手紙 上・下』岩波書店、1982年
※9 平野昭『ベートーヴェン』新潮社、1985年
※10 http://www.hmv.co.jp/news/article/1407030046/