名将が語る、人・組織・ルールetc.本質を捉える「考え方」とは、どういうものだろうか。 落合博満氏の新刊『決断=実行』の刊行を記念して、特別に本書の中身を一部公開する。(まとめ/編集部)
遠近2つの距離から選手を見続ける
チーム作りというのは、どの選手をどのポジションに配置するかというパズルのようなものだ。監督は前年のシーズンが終わった時点から青写真を描き、それを秋季キャンプ、冬場の自主トレを経た春季キャンプで修正していく。
私で言えば、春季キャンプを終えてオープン戦を迎える頃には、その年に起用するメンバーはほぼ固まりつつあった。チーム作りという意味では、仕事の80%を完了させていたと言っていい。
勝てるチーム作りに必要なのは、優れた技術指導力よりも、一人ひとりの選手がどんな思いで野球(仕事)に打ち込み、何を為したいのかを具に観察することだろう。
極論かもしれないが、よほど能力のある選手を揃えない限り、勝てるか否かは首脳陣がどこまで選手を把握しているのかで決まると感じている。だから、“選手を見る”ことに関しては一切の妥協をしなかった。
「活躍したい」と必死に練習に取り組む選手がいる。
私からの命令とはいえ、それに付き添うコーチもいる。それなのに、私だけが来客と談笑しながら夕食をとるわけにはいかない。監督とはどうあるべきか、という精神論めいた話ではなく、大切な選手を預かる立場として、当然の考え方ではないかと思っている。
そうやって選手を観察していると、技術的な面だけではなく、その選手の性格や体調まで見えてくる。
春季キャンプで朝一番に選手たちと顔を合わせれば、「あいつは昨日の晩に飲み過ぎたんじゃないか」とか「少しコンディションが悪そうだから、コンディショニングコーチに注視させよう」と一人ひとりに対して感じることがある。
8年も監督をやっていれば、そうした面では、すべての選手の体から心まで知り尽くしたと言ってもいいだろう。
とはいえ、選手について何か感じることがあっても、見ているだけで指示は出さなかったが……。
そこまで選手たちに寄り添えば、勝てるチームを作れるのかといえば、もうひとつやらなければならないことがある。チームや選手と距離を置き、俯瞰するということだ。
春季キャンプを終える時には、仕事の80%を完了させていると書いたが、それは戦力を整えるという段階での話だ。ペナントレースが始まれば、相手のある戦いを続けていくことになる。いくら監督自身が満足するチームを作ったとしても、対戦相手がそれ以上のチームを作ってきたら、肝心な“勝つ”という目標を達成することはできない。それでも開幕した途端に白旗を上げるわけにはいかないのだから、そのシーズンを通してチームをどう指揮し、勝利に導くかということを考え抜く。
勝てるチームを作るということは、チームを作るだけではなく、勝利という成果に導かなければならないのだから、監督としての本当の仕事はここから始まるという見方もできる。
その際に必要なのが、選手やチームを客観視できる目である。
多忙を極め、家庭でも、あるいは休日でもなかなか子どもと触れ合う時間を作れないというビジネスマンでも、奥さんから話を聞いたりすることで、ある程度子供のことは把握できているだろう。しかし、運動会や学芸会に足を運び、学校やクラスというコミュニティにいる子どもを見た時、家庭では見せない表情をしていたり、思わぬ一面を垣間見たことのある人は少なくないはずだ。
実は、それは意外なことではない。家族は自分にとって最も近い距離にいる存在で、ましてや自分の子どもとなれば、「健やかに育ってほしい」と願わずにはいられない。そんな子どもが幼稚園、小学校、中学校と成長するにつれ、外の世界での生活時間が長くなればなるほど、親の知らない部分が増えていくのは当然だ。
近くにいるからこそ気づかない、近ければ近いほど気づきにくい。そういう面が自分の子どもにさえあるように、監督にとっての選手も、毎日のように接しているからこそ気づかない面を持っている。そして、それが選手起用をする際に重要なポイントだったりする。
そうした理由から、選手を運動会や学芸会のような視線で見てみる機会が必要なのだ。手っ取り早いのは、バックネット裏に観客席を設けているグラウンドなら、その座席から練習を見る。校庭で練習している高校なら、校舎の3階あたりから見るのもいいだろう。目的は、距離を置いて選手を観察するということだ。
プロの世界でも、昔からファームのグラウンドには、毎日のように練習を観に来るおじさんがいる。時間がある時に雑談すると、野球経験がない人でも選手について的確な見方をしていたり、チームの人間が気づかないことを指摘されたりすることがある。監督をしている人なら、多かれ少なかれ、そんなおじさんに出会った経験があるのではないか。
そうした利害関係のない人の視点、客観的な見方もチーム作り、特に実戦で采配する時の大きなヒントになるものだ。
2~3日、観客席から練習を見ていると、まず自分がどれくらいチームに入り込んでいるか、入り過ぎているかが分かってくる。新人ならば大きな期待をかけ、伸び悩んでいる選手には、なんとかきっかけをつかんでほしいと願う。同じグラウンドに立ち、近い距離で選手と接している自分が、どれだけチームに入り過ぎているのが分かるはずだ。
私の経験で言えば、そうした期待感が、実戦で采配する際には邪魔をする。試合で勝つためには、どれだけ冷静に局面を見極め、その上でどういう手を打つかを決断しなければならないのだから、監督はチームを指揮する能力も研ぎ澄まさなければいけない。
サッカーに関して私は素人だが、日本代表の国際試合をテレビで観ていると、「あのフリーの選手になぜパスを出さないのか」などと思ったりする。だが、それはグラウンドを俯瞰した映像を見ているから気づくのであり、同じ目線でプレーしている選手やベンチ前の監督には見えていないのかもしれない。
野球でも、スタンドの解説席からなら見えるのに、当事者としてベンチから見ていると気づかないことはいくらでもある。
また、近くからでは見えにくい選手の動きも分かってくる。全員でランニングする際に足並みが揃わない選手、大きな声は出しているもののプレーでは手抜きをする選手、意外に単純な練習を黙々とこなす選手。いい面でもそうでない面でも、新鮮な発見があるのと同時に、こんなことを考えるようになる。
同点で迎えた試合終盤に先頭打者が出塁した。さて、1点を勝ち越すためには、バントで送って一死二塁の形にするか、一塁走者に走らせるか、あるいはランエンドヒットを仕掛けるか。監督がどの戦術にするかを選択する際には、当然ながら一塁走者の走力、打者のバントやゴロを打つ技術を考慮するだろう。
こうした場面で、チームを俯瞰する視点を持たない監督は、どうしても一死二塁の形を作りたいと思えば、打者が誰であれ、送りバントのサインを出す。
「あれだけ練習をさせているんだ。なんとか決めてくれるだろう。いや、決めてくれ」
しかし、監督の期待も空しく強めのバントが投手前に転がり、送るどころか併殺で二死になってしまう。
「やはり、あいつではダメだったか。うちでもバントが上手いほうではないからな……」
監督も人間だ。この後悔に似た思いは、必ずその後の采配にも影響する。
それならば、バントの下手な選手に思い切って打たせるのか、どうしてもバントで走者を進めたいからバント要員の代打を使うか。冷静に試合の流れを読みながら決断できる感性を研ぎ澄ませるためにも、年間を通して練習を俯瞰することをお勧めしたい。
もちろん、これは選手の動きだけでなく、コーチの動きも観察できる。また、同じような視点を持ってもらいたいと思うなら、コーチにも練習を俯瞰から観察させてみるのもいいだろう。
そして、この時に大切なことをひとつ書いておこう。どんな分野でも、技術を身につけるのは大変だが、必死に取り組んでいれば、どこかで「マスターできた」と感じる瞬間がある。野球なら、選手自身が感じたり、指導している監督やコーチが見て取る場合もあるだろう。
ところが、「マスターできた」と感じ、その取り組みをやめてしまうと、瞬く間に技術は元に戻ってしまうものだ。それを防ぐためには、身につけたいと必死になっていた取り組みを続けていくしかない。それは、現役引退を決意してユニフォームを脱ぐまで。できないことをできるようにするのが練習なら、できるようになったことを継続するのも練習なのである。
監督は、一人ひとりの選手が課題としている技術を身につけられたかどうかを見るのと同時に、身につけた選手が磨き続けているかどうかも見極めなければならない。そのためにも、練習を俯瞰から観察してもらいたい。
子どもを見る親のように選手をしっかり観察する目を持ちながら、時には選手がチームの中でどういう立ち位置にいて、どう動いているのかを客観視する。この遠近2つの距離から選手を見続けることが、勝てるチーム作りには必要だと考えている。