今年7月、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録された。数百年にわたって歴史の表舞台から姿を隠し、ときには激しい弾圧を受けながらも自らの信仰を貫き通した彼らは、いったいどんな信念を持ち、どんな暮らしをしていたのか。興味を持った筆者は、今夏、西彼杵半島の長崎市外海(そとめ)に赴き、そこで多くの隠れキリシタン関係者と出会って感じた新鮮な驚きをリポートした。今回はその続編として、同時期に「隠れキリシタンの離島の聖地」と呼ばれる佐世保市の黒島に赴き、そこで見聞きしたことをお伝えしよう。平成最後のクリスマスに、読者諸氏は何を感じるだろうか。(取材・文・撮影/ジャーナリスト 粟野仁雄)
隠れキリシタンの末裔はいま?
離島の旅人を出迎える和洋折衷の墓地
外海から佐世保市の相浦港まで海際を走り、午後1時のフェリーに乗った。キリシタン関連遺産が世界遺産になり、多くの観光客が訪れるようになったため、船体はマイクロバスが並べるほど大きくなった。約1時間で着く黒島は、国立公園に指定されている絶景の群島、九十九島の1つだ。面積は約5.3平方キロメートル。420人ほどの住民の8割はカトリック信者だ。
波止場には、世界遺産での訪問者増を期して「ウエルカムセンター」という案内所兼土産物店ができていた。
まず訪れた「カトリック共同墓地」。ずらりと並ぶ日本式の墓石の上には十字架が立つ。縦書きの日本人名にミハエル、マリアなどの洋名がつけられている。「マリア観音」同様、まさに和洋折衷だ。こんな光景は他ではまず見ない。キリスト教は土葬のため、あとで掘り返して骨を焼くこともあったそうだ。
異文化の最終形態はやはり墓だ。一角に、明治時代の長崎で活動したフランス人宣教師、ジョゼフ・マルマン神父(Josef Fernand Marman)の墓もあった。マルマン神父は1849年にフランスのロワール県で生まれ、神学校卒業後、外国宣教会から1877年に日本へ派遣された。
始めは五島列島の福江島を拠点に布教し、1897年に黒島天主堂に主任司祭として赴任した。島には古い教会があったが、設計技師、建築技師だったマルマン神父は着任早々それを建て直し1902年に完成させた。一時帰国したが、黒島に戻って1912年(大正元年)にこの地で没した。