取材者として一番大切なことは、「取材者自身を取材すること」である。

そう言っても過言ではありません。

しかし、一見奇妙に思えるかもしれません。

「いやいや、取材者が向き合うのは、取材相手だろ!」

はい。それはその通りです。取材相手に向き合うのは当然です。でも、「取材者自身」の「取材者自身による取材」が、同じくらい大事です。

先ほどの、「深夜の富士そばサラリーマン」に対する、ぼくの分析を思い出してください。

前ページへ戻るのはめんどくさいと思いますので、もう一度並べます。

しかし、読まなくて大丈夫です。ひと項目ずつの、文字の分量だけ、パッと見てみてください。

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(1)そもそも、終電後の1時にご飯を食べている。仕事が忙しい人なのかもしれない

(2)それでもスーツにはアイロンがかかっている。家庭があるか、一緒にいる恋人と同棲しているのかもしれない

(3)
銀行員なのにストライプのスーツを着ている。少し仕事に自信があるのかもしれない。しかし、派手なストライプではないので、承認欲求がむき出しになるほどではなく、組織の目を意識する理性との葛藤を抱えた人間であるかもしれない

(4)
ため息をついている。仕事がうまくいってないのかもしれないし、家庭がうまくいっていないのかもしれない

(5)
10歳以上、年上に見える恋人といる。彼は、女性に母性を求めているのかもしれない。彼が育った家庭は、ひょっとすると母性が欠如していたのかもしれない。つまり、父子家庭に育ったのかもしれない

(6)富士そばでカツ丼セットを食べている。小遣いに余裕はないのかもしれない。あるいは、忙しくて他の店が開いている時間に食事ができなかったのかもしれない。そして、夜中にカツ丼&そばの炭水化物コラボをかますなんて、よほどストレスを溜め込んでいるのかもしれない

(7)
30代前半で、りそな銀行の胸バッジをつけている。彼が入社した2000年台後半は、ちょうどリーマンショック以後の不景気に見舞われた世代だから、銀行に入れたなんて、学生時代から真面目だったのかもしれない。りそな銀行は都銀の中では最大手ではないので、日々の仕事で屈折した思いを抱えているかもしれない。その逆境をバネにするべく、普段の業務を頑張っているのかもしれない。でも、もう一度翻って、今日、終電を逃したこんな時間に、富士そばで、10歳以上年上の母性を感じさせる年上の女性と、30代のクセに炭水化物大量摂取しているなんて、普段頑張っていた「仕事」で何か行き詰まりを感じているかもしれない

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どうでしょう。これが、自分自身を取材しなくてはいけない理由にほかならないのですが、おわかりいただけるでしょうか?

この文章は、「もし自分がこういったシーンを目撃したら」と想定して書いてみた仮説ですが、「量」に注目して見てみると、一番最後の(7)、すなわち「りそなブロック」が際立って分量が多くなっています。これは何を意味するか。

この偏りが、取材者自身の「思想や興味の偏り」そのものです。

ぼくはテレビ東京に勤めています。開局以来55年間キー局最下位の会社です。りそな銀行も、都市銀行の中では店舗数最下位。似た境遇なので同じ苦労があるかもなあ、などと親近感を抱いている可能性がある。だから、一番分量が多いのかもしれない。

2番目に多いのが、(6)の「夜中に富士そばで炭水化物」のくだり。これも、かつて30代で太っていた自分の興味関心が色濃く反映されているかもしれない。さらに、その解釈も「ストレスかもしれない」という仮説の立て方は、自分の経験則からくるものです。

逆に1番少ないのが、(1)の「終電後にご飯を食べる」というくだりです。これは、普通ならとても特殊な状況ですが、テレビ局で働いていると終電後に帰ることが多すぎて、その特殊性について麻痺しているのかもしれません。

……などなど、各項目の分量をパッと見ただけでも、「取材者」である自分自身の解釈が無意識に及ぼす影響の大きさがわかると思います。

この自分自身への認識を明確にしておかないと、自分が「興味深い」と思った事実や、「魅力的だ」と思ったストーリーの魅力を、うまく受け手に伝えることができないのです。

これは、テレビなど映像メディアなら、取材者が作成するテロップやナレーション、どんなシーンを重視し、どんなシーンをカットするかなどを決める編集作業の話です。

文字メディアでも、文章の量や構成すべてにこれが影響します。

プレゼン資料や、PR記事、営業トークなどの失敗も、すべてこの「自分に対する取材不足の罠」が関係しています。

テレビ業界の若手のディレクターにとって、この「自分自身への取材」は、前項の「人の心を可視化する」以上に難しい作業です。なぜなら、ほかならぬ自分のことなので、感情の動きに無意識である場合が多いからです。

「自分はなぜそう思ったか?」と、よほど意識的に自問自答するクセをつけないと、つい「自明の罠」に陥ってしまう。だから本当に大切なのは、「取材対象者」に対する注意深さと同じ洞察力を持って自分を洞察することなのです。

巷に流通している「演出論」や、「取材論」に関する書籍では、「取材対象者」に関する方法論は述べられていますが、自分を取材する方法論は、あまり見かけません。

実は、入社8年目のディレクター時代、ぼくが作った『ジョージ・ポットマンの平成史』という番組のファンでいてくださった筑摩書房の方から「本、書きませんか?」とお手紙をいただき、『TVディレクターの演出術』という本を著しました。

そこには当時考えうる限りの「物事の魅力を引き出す方法」をつめこみましたが、「取材対象者」に対する洞察に関する事柄が多数を占めています。それでも当時、ディレクターとしての腕には自信がありましたし、それなりに多くの評価を受けてきました。

しかし、その時からさらに5年が経ちました。

『家、ついて行ってイイですか?』という、普通な、単なる「街の人」の魅力を描く中で、毎週ただひたすら30分の1秒と命を削って向き合うルーティンワークの先に確信したのが、繰り返しますが、魅力あるストーリーを描くには、「取材対象者」だけではなく、「自分自身」に対する「取材」が大切であるということです。

自分自身が本当においしいと思う自社の新作アイスでも、みんなに使って欲しいと心の底から思う自社のアプリでも、時にネガティブだと思える自社の製品の「ここだけは魅力だ」と思える点を発見できた際でも、「ストーリー」として伝える上で大切なのは、自分自身を深く洞察することです。あなた自身には、あなた自身があまり認識していない、あなた自身の偏見を生む要素が無数にあります。

自社が開発したアプリを「傑作だ!」と思って、その魅力が伝わる「ストーリー」を盛り込んだ記事やプレゼン資料を作ろうとしているとします。

そのとき、それを「いい」と思った自分自身を洞察しないことには、ユーザーにその魅力は伝わりません。なぜなら、あなたとユーザーは同じ人ではないのですから。

自分自身の偏見を生んでいる要素とは、たとえば、次のようなことです。

・自
分は、同じ会社なので、作った社員の顔が見えています。
・自
分は、かつて企画部という部署にいたことがあります。
・自
分は、その業界の暗黙の制約やルールを知っています。
・自
分は、その業界の歴史や最先端技術や流行を知っています。
・自分は、年収がこの程度です。
・自分は、既婚者で子どもがひとりいる世帯です。
・自分は、東京の江東区出身です。
・自分は、大学時代文科系でした。
・自分は、ある程度、受験を頑張りました。
・自分は、早稲田大学出身です。慶応ではありません。
・自
分は、バラエティではなくドキュメンタリーを観ます。

わかりやすいのは、1つめかもしれません。

自分たちの会社の製品を「いい」と思うのは、大いに、それを作った人の「顔」が見えているからです。作った人たちの努力や、失敗や、製品の実現に至るドラマの一端を、知っているからです。

でも、消費者はそんなこと一切知ったこっちゃないのです。

でもでも! ここで、大切なことだから、立ち止まってください。

注意が必要なのですが、だからといってあくまでそれは「自分が魅力的だ」と思ったことを、自分という特殊性が感じた魅力だから、描いてはいけないのだ、ということではないということです。

「そのままでは伝わらない」「伝わるように工夫する必要がある」ということです。

むしろ、誰もがいきなり共有できる魅力なんていうのは、数もしれています。さらに、誰もが取材者という媒介者を介することなく、日常生活でも気づける魅力なんて、ありふれて既視感だらけのものであることが多いはずです。

しかし、自分という特殊性が感知した魅力だからこそ、そのストーリーは見たことないおもしろさを秘めているはずです。それを伝えるには「工夫」が必要なのです。

なぜなら、これが(3)になるのですが、そもそも受け手はそんなもん知ろうと思ってないのですから。見て欲しいと思ってるのはこっちなんです。「おもしろい」と褒めて欲しい(テレビマンの動機の多くはこれです)。商品を買って欲しい。社会を変えたい。

あくまで、それは描きたい、伝えたいものがある「作り手側」が工夫すべきことなのです。

そのコンテンツが魅力的だという立証責任は、エンターテインメントやビジネスにおいては、あくまで作り手側にあるのです。