2009年、三原邦彦は東京・赤坂の豊川稲荷で座禅を組んでいた。迫りくる経営危機を前に、心を落ち着かせるためであった。
戦の神様である毘沙門天の像を拝み「今ある課題は、自分が乗り越えられるものしかないはずだ」と自らに言い聞かせた。
08年秋のリーマンショックから始まった世界同時不況は人材派遣業を直撃。社会人経験のある主婦をパートタイム型で企業に派遣していた、三原の会社も例外ではなかった。
翌年に入ると契約が次々と切れていった。6月まで売り上げが下がり続け、前月より30%も大幅ダウンする月もあった。
当然、09年6月期の決算は赤字。2期連続で赤字に陥れば銀行から手を引かれてしまいかねない。財務体質の悪化が続けば、人材派遣業の免許そのものが奪われてしまう恐れもあった。
三原は苦渋の決断を下した。経営陣の報酬を半分にカット、当時のパート職員約50人に退職勧告をした。経費を1円でも切り詰めようと文具を1カ所に集めて管理し、ボールペンの替え芯一つまで簡単に認めなかった。賃料の値下げ交渉も行った。結果、販売管理費を4割下げた。それも社員全員を残そうと決めていたからだ。
もともと三原は「経営者の説明責任」を大事にしていた。月1回は必ず経営指標を全職員に公開。苦しいときも懐事情を隠すことはしなかった。社員も当事者意識を持って仕事に当たったことで、業務の効率は向上し、人材の流出も防いだ。
景況感が回復するにつれ契約も戻り、翌10年6月期には過去最高益を記録、11年夏には決算賞与を出すことまでできた。
三原は「土俵際に追い詰められたときこそ目の前の事業に集中することが大事だった。厳しい中をくぐり抜けた社員が残ってくれたことで業績の急回復につながった」と言う。