三井物産の源流は、1876年に世界初の総合商社として誕生した旧三井物産にある。その指揮を執ったのは若干27歳で初代社長に就いた益田孝氏。戦後の財閥解体を経て、ビジネス環境が大きく変わった現代においても、三井物産には創業以来のDNAが受け継がれていると、安永竜夫社長は説く。(聞き手/ダイヤモンド編集部 重石岳史)
――一昨年にインタビューした際、安永社長は「人の三井」について言及されましたが、社長就任以来注力する人材育成に関しての手応えはどうでしょう。
「ともかく外へ出ろ」ということを言い続けています。私自身、前回取材を頂いた当時の出張日数は年間120日でしたが、今は130日を超えつつありまして、知らない間に秘書に予定をぶち込まれているんです(笑)。そのうち国内は10日程度です。
――9割以上は海外。当時よりも出張は増えているんですね。
増えていますね。やはり資源関係や大きなインフラの案件は、その国の国家元首にお会いしなきゃいけないケースが結構ありまして、そうすると社長が行くしかない。ただ今回のモザンビークは株主総会を優先せざるを得ないということで私の出張は見送っているんですけど、「じゃあ、いつ来られるんだ」って言われていますから。またそこのスロットを空けにゃいかんということなんですね。
――現場に出るということをずっと続けている。
トップ・トゥ・トップの関係を一度築いたら、それをきちんと維持拡大することをしないともったいないですよね。社長に代わって副社長が、ということになると向こうも副大統領になってしまうわけですから自分で行かざるを得ない。それはCEO(最高経営責任者)とCEOの関係も同じですので、そうするとどうしても自分で行かなきゃいかん。
あるいは出資した事業をどう成長させるのか、現場の人間とパートナーとの間でチームとしてしっかり緊密に連携しているかということは、定期的に自分の目で見ていかないといけない。
そうすると当然、営業本部長も自分で見ようとする。今は15人の営業本部長と3人の地域本部長が直接私にレポートする立場にありますが、彼らも動き回っています。
もちろん動き回るだけでは駄目で、そこでしっかりディールをつくるのがわれわれの仕事。いかにして新事業を起こし、育て、それを発展させていくかを常に18人の本部長に問うてますし、それをやってもらうためには自分自身で現場を見とかなきゃいかん。