シュンペーターより10歳上の世代である福田は、1894年に高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業すると神戸商業学校(現在の県立神戸商業高校)教諭となるが、1年後に辞めて高等商業学校研究科(大学院)に進み、修了後はそのまま講師として採用される。この時点で高等商業学校は大学ではない。

 1898年5月、ドイツのライプチヒ大学へ留学、9月にミュンヘン大学へ転じ、ルーヨ・ブレンターノ教授(Lujo Brentano 1844-1931)に師事する。ブレンターノはバイエルンの西端、アシャッヘンブルクのイタリア系名門一族(★注4)に生まれた国民経済学者で、当時の第一級の経済学者だ。ウィーン大学などを経て1891年から1914年までミュンヘン大学教授だった。

 ブレンターノはその後、第1次大戦敗戦時のドイツ革命直後、1918年11月にバイエルン州政府の社会化委員会議長に就いたが、翌月には辞任している。同時に精神労働者政治評議会議長も務めた(★注5)。社会改良政策をめざすドイツ新歴史学派の代表的存在だった。

 福田は留学中の1900年4月に高等商業学校教授に任官、日本経済史に関する論文をドイツ語で書き、高い評価を得て7月にミュンヘン大学より国家学博士号を授与されている。その後、欧州各地へ旅行し、1901年9月に帰国した(★注6)。

 帰国後は母校で教官生活が始まるが、学長と衝突して1904年8月に休職処分を受けて辞任、1905年10月に慶応義塾教授へ転じ、小泉信三(★注7)や高橋誠一郎(★注8)を育てたことで知られる。

 慶応でも人間関係で衝突を繰り返し、1911年慶応を退職、しかし翌年復職。足掛け13年間の勤務ののち、けっきょく1918年3月に辞任した。この間、東京高等商業学校へ講師として出講している。

 両校の内部で衝突を繰り返しているので、相当激しい性格だったことが想像される。学生は極度の緊張を強いられたことだろう。恐そうな先生である。

 慶応を辞めたあとは1919年5月に東京高等商業学校教授に復職している。シュンペーターがドイツ社会化委員会委員を経てオーストリア共和国財務相に就いていたころだ。

 東京高等商業学校は1920年4月の学制改革で東京商科大学となる。中山伊知郎が入学したのはちょうどその年度であり、福田ゼミに入ったのは、復職2年目だったわけだ。

 福田は中山に対して、クールノーとゴッセンとワルラスの著作をそれぞれ1冊ずつ、それだけを読め、と指導する。中山はこう回想している。

 「これらの古典にはいずれにも数学が使われているので、当時の経済学者からは敬遠されていた。それを一度は節を屈して通らねばならぬ関門と考えられていた。先生は私にこの課題を与えるとともに、自ら大いに学ばれようとした。」(★注9)