なぜ関電は一貫して
森山氏に逆らえなかったのか?

 関電側が一貫して森山氏に逆らえなかったのは、原発立地の有力者で、機嫌を損ねたら原発の運営に支障をきたすかもと恐れたからだと説明しているが、実際にこういう具体的な「脅し」があるわけなのだから、助役時代の森山氏が、経営トップから何を頼まれ、何を知り、どのようなことをしたのかということは重要ではないか。

 その「世間に明かしたら大変なこと」を握っているということが、森山氏に対する関電側の「恐怖」の正体になっている可能性があるからだ。

 例えば、原発行政の信頼を粉々にするような癒着や不正。あるいは、原発の安全性を根底から覆すような問題の隠蔽や、当時の常識的にも完全にアウトという裏仕事の可能性もある。

 そんな小説やドラマみたいなことがあるものかと笑うかもしれないが、事実として森山氏が役場にいた時代、関電の原発はかなり深刻な「危機」に陥っていた。

 まず、森山氏が助役になってほどない1979年5月、高浜原発の1号機では、緊急炉心冷却装置と連動した補助ポンプの軸が折損していることが判明。これは当時、通産省も「わが国原発開発史上、初めての重大な異常」(読売新聞1979年5月12日)と述べるほど問題視した。

 その半年後、住民を恐怖に陥れるような深刻な事故も起きている。

「放射能含んだ一次冷却水 高浜原発で大量漏れ パイプ破損 9時間で80トン」(読売新聞1979年11月4日)

 当時、アメリカのスリーマイル島の事故もあって、原発の危険性が国際的にも指摘されていた。事故が続く高浜原発にも反対派が集結し、森山氏と関電が二人三脚で進めていた3号機、4号機の安全審査をやめさせようと、公開ヒアリングには全国から反対派市民団体が500人押し寄せたこともあった。

 が、こんな「逆風」の中でも3号機と4号機は稼働した。今の感覚からすれば、あまりにも強引な原発推進に、「誘致や地域の取りまとめ等に深い関わりをもった」(報告書)森山氏が大きく寄与したことは間違いない。