「いじめ自殺問題」は、これまで幾度となく繰り返されてきた。担任教師らが「葬式ごっこ」に荷担していたとされる1986年の中野富士見中学校での事件、同級生ら4人が恐喝容疑で書類送検された1994年の愛知県西尾市中学校での事件、そして「学校裏サイト」の存在が指摘された2007年の滝川高校での事件などが思い起こされる。

 一度話題になるとその都度報道が過熱。加害生徒や学校、教育委員会を糾弾する声が上がり、ニュース番組ではコメンテーターや芸能人らが「私も子どもの頃にいじめられていた」「子どもの声に耳を傾けるべき」「絆を大切にする教育を」などと口にする。

 だが、いったん報道が収まれば世論も沈静化。いじめが原因と考えられる児童・生徒の自殺はいつまでもなくならず、いじめ自殺に関する過熱報道は「定期的に」起こるのが現実だ。これ以上問題が繰り返されないために、学校はどう変わるべきなのか。そしてメディアが本当に報じるべきこととは何か。足もとで「いじめ自殺問題」がクローズアップされるなか、改めて考えてみよう。

学校は「聖域」であるべきなのか?
異例の警察介入が問いかける意味

 今回のいじめ自殺問題への学校・教育委員会の対応や報道側の姿勢も、これまでと大きく違うところは感じられない。その中で、「これまでと違うところがあるとすれば、警察が介入したことと、世論がそれを支持していること」と指摘するのは、『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)の著者で、明治大学文学部の内藤朝雄・准教授である。

 内藤氏は、いじめ自殺の現場を取材し、その事例を踏まえていじめ発生のメカニズムを指摘。いじめを発生させない新たな教育制度を『いじめの構造』の中で論じている。

「これまで教育現場は『聖域』とされ、警察の介入があってはならないとされてきました。今回は警察の捜索が入り、世論も『徹底的に調べ、問題があったならば処罰を加えるべき』という論調。これは今までの雰囲気と少し違います」(内藤氏)