「臨床医をベースにやりなさい」
恩師の教えで軌道修正

 大学院を修了した後はグラスゴー大学(イギリス)に留学し、帰国後は母校・北里大学の助教授に就任。細胞生物学的な分野の研究に励み、複数の論文が一流学術誌に掲載された。

「当時、マインドの半分は研究者だったと思う。だんだんと学問が面白くなって、普段の診療からはなんとなく気持ちが離れていきました。すると当時の上司から諭されました。『臨床医をベースにやりなさい。将来、あなたの名前がもし残るとしたら、研究ではない。(研究者として)いい仕事をしているけど、あなたの発見する能力は、臨床をしっかりやった方が生かされる』と。

 別に名前を残したいとは思っていませんでしたが、マインドが学問的な研究に傾き過ぎていたことに気づき、軌道修正しました。諭してくれた上司には、感謝しています」

 以降、教授戦に敗れたことを機に大学を辞め、井上眼科病院に就職。副院長を経て、院長になった。

「臨床医としての僕の興味は、神経眼科の中でも視神経とか網膜にあったんですけどね、院長になると、一般の先生方が診断に困った患者さんはすべて回ってくるわけですよ。自分の専門になんてこだわっていられない。皆さん、それが院長の仕事だと思っているんですね。

 そのおかげで、臨床面でも広く診る癖がつきました」

 患者との出会いからも多くのことを学んできた。なかでも印象に残る6人については、『絶望からはじまる患者力:視覚障害を超えて』(春秋社)で紹介している。いずれも、不治の病に侵され、障害を負い、受容し、克服していった人たちの実話なのだが、勇気を与えられる一冊であると同時に、日本の社会制度の問題点や患者会等々にも触れていて、非常に勉強になる。

「患者さんには、背中を押してもらっています。最近出会った方で忘れられないのは、ある眼瞼けいれんの患者さんですね。大学で基礎研究をする仕事に就いておられる女性です。

 症状が出て、それこそ10年ぐらい、眼科から精神科医まで20軒もの医療機関を受診したけど分からず、『ここで最後にしよう』と決めて、僕のところを受診されたそうです。

 僕は、その方が診察室に入ってこられてすぐに眼瞼けいれんだと分かりましたよ。だからなぜ、これまでの先生は分からなかったのだろうと不思議に感じました。

 病気のことを説明しましたら、すごく喜んでくださったのと同時に、やはり『どうして、今まで診てくれた眼科医は、そんなことも知らないのでしょう。教育がなされていないんじゃないですか』とものすごく怒って。『どうかこの病気のことをもっと社会に広めて、他の眼科医にも教えてください』と頼まれました」