心身のどこかの部位が他より早く老化が進み、障害を持ち始めると、多くの人は医療機関で診察を受けることになる。するとその部位ごとの病名を授かる。心臓や肺に障害があれば、慢性心不全や慢性呼吸不全。骨の機能が弱まると骨粗しょう症、目にくると白内障などだ。たまたま脳細胞に萎縮や血流不全が起きると認知症と診断される。いずれも、長生きに伴う自然な現象、「正常」な現象とみていいだろう。だから、認知症になった人を年齢別に見ると、高齢になればなるほど増えていく。

 手術や投薬で一時的に回復する可能性もあるが、基本的な加齢、老化の進展は防ぎようがない。自然の摂理に逆らうことはできない。人類の英知を総動員しても止めることはできない。あえて、攻撃的な治療、すなわち延命治療を施せば大きな苦痛をもたらすだけである。

 こうした生物としての自然な死を受け入れようとする考え方が日本でも広がってきた。自然死が大半の「老衰死」が死亡原因としてこの10年で急増しているのである。

 つまり、認知症を病気として捉えるのは疑問である。そうすると「疾病予防の3段階」論を持ち込んでくることも難しくなる。

 認知症予防について世界保健機構(WHO)のガイドラインがよく引用される。

 大綱の修正論議の直前、5月14日に公表されたが、運動や禁煙、高血圧の降圧などを推奨しつつも、地域交流などはエビデンス(根拠)が十分ではないと指摘している。注目したいのはこのガイドラインのタイトルは、Prevention(予防)ではなく、Risk Reduction(リスク低減)であること。予防できるという誤解を配慮してのことか。「リスクの低減」という表現が限界なのだろう。

 では、「予防」を外せばいいのか。なんと認知症の本人たちが、「予防」に代わる別の言葉を提言している。5年前に立ち上げた「一般社団法人・日本認知症本人ワーキンググループ」(JDWG、藤田和子代表理事)である。今の国会で審議予定の「認知症基本法」にも「予防」が盛り込まれているが、その「予防」について、「予防という語を目的や理念から外してほしい。代わって『備え』にして」と主張している。

 確かに、「備え」であればよく分かる。台風がいつ来てもいいように、食料や燃料などを蓄えておく、つまり「備え」ておくことに通じる。生活環境を整えておけばいい。誰でもが認知症になる可能性があるのだから、認知症になっても普段通りの暮らしができるように、今から「備え」ておくという考え方だ。

(福祉ジャーナリスト 浅川澄一)