◇英国人パーマーが手掛けた横浜港

 明治時代に「富国強兵」と「殖産興業」という標語を掲げ、国の近代化を進めていた日本政府は、欧米から技術を学ぶために多くのエンジニアを招聘した。日本が短期間のうちに近代化を成し遂げた背景には、優秀な外国人エンジニアの貢献があった。

 この時代、戊辰戦争で新政府側を支援していた英国と日本は、特に友好的な関係にあった。英国人のヘンリー・スペンサー・パーマーは、イギリスの植民地であったインド、カナダ、ニュージーランド、香港などに赴任した後、1883年に日本にやってきた。

 神奈川県はパーマーに横浜上水道建設を任せ、約40kmに及ぶ水道工事を成功させた。そのパーマーが横浜上水道の次に着手したのが、横浜港の整備である。

◇造船業で生み出された雇用

 パーマーは「港湾の発達には、船の修繕所や倉庫など、港に付随する設備の充実が不可欠である」と主張した。これを受けて日本の資本主義の父とも言われる渋沢栄一や、横浜の財界人たちが横浜船渠(せんきょ)を1891年に設立した。後の三菱重工横浜造船所である。船渠とは、またの名をドックともいい、船舶の製造、修理などに際して用いられる設備のことだ。

 1894年に日清戦争、1904年に日露戦争が始まると、横浜船渠は船の修繕に加えて、造船事業を開始した。横浜船渠は海軍からの依頼を受け、多くの艦船の建造を担うこととなり、数千人の労働者が横浜で働くこととなった。現在の横浜港のシンボルであり、奇跡の幸運船と呼ばれる日本の貨客船「氷川丸」も、この造船所で生まれたものだ。

 造船業は、戦前から戦後にかけて日本の基幹産業として日本経済を牽引した。それは横浜においても同様であった。三菱重工横浜造船所は多くの雇用を生み、横浜経済に力を与えた。

◆みなとみらいの開発と時代背景
◇一億総中流の時代

 1983年にみなとみらいの開発が始まった。この年は、すべての日本人が同じように豊かさを感じることができ、最も人々の経済格差が少なかった「一億総中流」の時代、その終わりの年であった。

 この年の日経平均株価は8021円でスタートしたが、年末の大納会には、9800円に達し、1984年の年明け後、すぐに1万円台に達した。日本の人口は1億2千万人突破を目前とし、日本中の小学校は「団塊ジュニア」と呼ばれる子どもたちで溢れかえっていた。

 郵便貯金の定期預金の金利は6%。ただ金融機関にお金を預けるだけで、貯蓄が増えていく。経済は年間を通して右肩上がりであり、国民全員が豊かであった。