キッコーマン社長、茂木啓三郎
 キッコーマンの醤油が初めて米国に渡ったのは、1868(明治元)年の第1回ハワイ移民船に積み込まれたときまでさかのぼる。その後は、米国のみならず、中国大陸や東南アジアに日本人が進出するのに伴い、日系人や在留邦人向けに醤油が輸出された。

 米国向け輸出は太平洋戦争の始まりでいったん途絶えるが、戦後になると再び動き始める。終戦後の占領時代から朝鮮戦争にかけて、軍人を中心に多くの米国人が日本を訪れたが、彼らが肉料理や、魚料理に抵抗なく醤油を使い始めたのを見て、キッコーマン社内では日系人以外の米国人市場に潜在需要があることを確信するようになった。

 1957年にサンフランシスコに販売会社を設立、59年にロサンゼルスに支店を開設し、西海岸から攻略が始まった。60年代に入るとニューヨークにも支店が設置され、65年には中西部のシカゴにも販売拠点が設けられた。

 こうした現地の販売会社は、「テリヤキ」をはじめとする醤油を使った米国人好みの料理を開発し、スーパーマーケットでの実演販売など地道な啓蒙活動を繰り広げた。

 今回紹介するのは、ちょうどそんな機運が巻き起こっていた66年11月28日号に掲載された茂木啓三郎(1899年8月5日~1993年8月16日)のインタビューだ。この年、キッコーマンは創立50周年を迎えており、啓三郎は6代目の社長である。結論から言うと、この海外展開で業績を拡大させ、キッコーマン“中興の祖”と呼ばれるようになる。

 ちなみに現在の茂木友三郎名誉会長(啓三郎の長男)は当時、海外事業部の課長として、醤油輸出の最前線に立っていた。このインタビューの2年後となる68年には醤油の現地生産(当初は日本から醤油を運び、現地で瓶詰めしていた)を開始し、73年にウィスコンシン州に本格的な醤油工場を稼働させた。これらのプロジェクトを先導したのは友三郎で、まさに親子2代で海外展開の道筋を付けていったというわけだ。

「醤油の輸出は、非常に見込みが出てきた。醤油に関する限り、私はここに大きな結論があると思っています」と、記事中で啓三郎は語っている。確かにそこから半世紀でキッコーマンはグローバル企業に変貌した。2019年3月期、同社は売上高の60%、営業利益の71%を海外で上げている。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

中小醤油メーカーが
値上げを決議した理由

──醤油の値上げは、いったいどうなります?

週刊ダイヤモンド1966年11月28日号
1966年11月28日号より 拡大画像表示

 この問題の発端は、中小メーカーの値上げ決議です。

 この業界には、ビッグ5といわれている5メーカーを除くと、300人を超す業者は1社もない。全部中小メーカーですが、各県ごとに単位組合があって、地域ごとに連合会をつくっている。

 例えば、関東連合会だけで業者は1200軒ほどありますが、ここが値上げを決議して、関東農政局に届け出た。農政局はビックリして、さあ、これは大変だということになったわけです。

 値上げの理由は、原料と人件費が高くなったことです。特に、原料の大豆が非常に高くなった。また、人件費だって、うんと高くなっている。

 原料の大豆は、その後、安くなってきましたが、大豆には輸入関税が13%もかかっている。関税のかけ方にはいろいろありますから、詳しいことはここでは言えませんが、現在でも1トン5000円ぐらいの税金が大豆にはかかっている。

 それから、小麦。例えば、製粉会社などは特別な価格で払い下げてもらっているが、われわれには特定価格などない。塩の値段にしても同じです。

 われわれとしては、この三つをなんとか改善してもらいたい、これが先決だと政府にお願いした。

 すると、それは道理だ、道理だけれども、醤油は三度三度の食卓に上るものだから、ぜひ値上げしないでくれと、逆に向こうから頼まれてしまった。逆陳情ですな。

 それでは、政府がその三つの改善をやってくれるならば、しばらく見送りましょう、ということになった。今は、そういう段階です。

 しかし、中小の間では、依然として、値上げに強い希望を持っていますね。中小メーカーは、前に言いましたように、協同組合連合会を組織しているから、値上げ決議をして1カ月前に届け出れば、一応値上げはできるんです。

 しかし、われわれには、そういうものがありませんし、政府がなにか考えようと言っているのに、われわれが無理に値上げすることは穏やかでない。しばらく様子を見ているわけです。