前編では「契約者は保険契約の当事者となると同時に、社員となって会社の運営にも当たる」という相互会社という会社形態を理想とし、1902年に矢野が第一生命を創設したところまでを、本人が雄弁に語っている。続く後編では、実際の第一生命の経営の特徴や現況に触れている。
矢野は、契約者の保護に重点を置き、契約者の選択は厳しく、契約金の支払い基準は寛大にするという方針を取った。保険料は高めだったが、余剰金が出ると返戻金として戻し、最終的には他社より有利になる料金を設定。5年目からは払込保険料の3%を配当として戻したのである。こうした経営方針は、その後の生保業界全体に大きな影響を与えたといわれている。
第一生命の誕生後、とりわけ第2次世界大戦後には多くの保険会社が再出発を期するに当たり、金融機関再建整備法に基づいて相互会社に組織変更していった。
一方、21世紀に入ると逆に、コーポレートガバナンス(企業統治)の強化や資金調達の必要から、相互会社から株式会社への組織変更が進む。そして、2010年には第一生命自体も株式会社化に踏み切っている。
さて、矢野は明治、大正、昭和を通じて、著述活動を積極的に行ったことでも知られている。論文、著作は60作に及ぶという。特に1907年に出版した『ポケット論語』は、欄外に読み方と注釈を付けたのが受け、数十版を重ねるベストセラーとなった。また27年には『日本国勢図会』を刊行。現在に至るまで公益財団法人矢野恒太記念会が毎年編集に当たり、統計年鑑として今や定番となっている。(敬称略)
(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)
自分の仕事は
「模範農園」をつくること
1928年5月1日号より
ところで、いよいよ会社をつくり上げてみると、自分はにわかに責任の重さを感じた。自分は、今まで人の会社をかれこれ言っている。そして、それを殺したり、生かしたりしている。その男が、自分で会社をやって、めちゃめちゃに失敗しては、申し訳がない。また自分が失敗すれば、それきり日本へ相互主義が入ってこないかもしれぬ。
いわば、自分は模範農園をつくるようなものだ。農業技師として歩いてきた者が仕事を始めて、失敗しては面目ない。小さくてもいいから、良いものをつくらなければならぬ。大きくしようなどいう考えは、みじんもなかった。被保険人が10人しかできなければ10人でよい。100人しかできなければ100人でいい。その責任をいかにして果たすかということのみ考えた。