日本では、精神性を追求する機会があまりない

苦難とは、神様からの贈り物だ、<br />と思えるかどうか<br />【(『超訳 ニーチェの言葉』)白取春彦×ジョン・キム】(前編)

白取 僕はヨーロッパにも暮らしていましたけど、やっぱり日本人はぬるいんですよ。例えば、ベルリンなら、3人に1人は外国人なんですね。いつも異文化がすぐそこにある。こうなると、感覚が変わるんです。ガイジンだ、なんて誰も言わない。もともと混じり合っているんですから。

 会話も、相手を傷つけるような会話はしないですね。言葉も使い方も慎重になる。違うことが当たり前になると、同じことに違和感を持つようになるんですよ。ずっと同じであることが、特殊だということに気づける。

キム 日本では、同じであること、まわりに合わせていくことで、ひとつの社会的な成功を手に入れることができた時代があったんだと思うんです。個が、ある程度、自分を犠牲にすることで、全体のパイが大きくなって、それが自分にも戻って来た。でも、もうそういう時代は終わったんですよね。ところが、今もそこから抜け出せない。

白取 日本の成功というのは、せいぜいこの数十年の話なんですね。なのに、こうすればうまくいく、なんて話が、いつまでも続くかのように語られたりする。錯覚ですよ。そもそも公式の成功法なんてものはない。それぞれの成功法はあると思いますよ。それぞれ個性はあるし、それぞれ生まれも能力も別ですから、それに合った成功法はある。

 でも、誰にでも通じる成功法なんてものはない。あるとすれば、正直さとか、信頼とか、人としての極めてオーセンティックなものだと思う

キム ニーチェも言っていますよね。確固たる人間の生き方の原則というものがある。成功や失敗を超えた、人間として生きるときに当たり前に大切なことがあるのだ、と。ところが、それは実は実行するのが難しいことでもあるわけです。

 例えば、大衆を信じない。大衆の中で埋もれることに対して、警戒をしなければいけない。自分の生きる意味は何なのか、自分にとっての真実は何なのか、常に自分で追求するような心を持たないと、流されてしまう。そうすると、自分の人生というものが、自分の人生ではなくなってしまう。自分だけの成功に出会えなくなってしまう。

白取 そういうことをちゃんと理解できるかどうか。こうすれば成功できる、こうすればうまくいく、というノウハウのようなものではなくて、もっと本質的なところから人生を考えることができるかどうか。

 実際、一見ノウハウ的に見える本でも、本当にきちんとした経営者が書いた本は、最終的には、精神論に行きつくと思うんですよ。倫理が書かれることになるんです。それは、ニーチェと共通している。それを読者がちゃんと理解できるかどうか、です。

キム 精神論まで入っていった経験が、これまで自分には少ないのだ、という自覚は必要かもしれません。日本では、精神性を追求するような機会が、そもそもあまりない。そこまで入らなくても、いろんなことが社会から準備されていたわけですから。試験もあって、受験もあって、就活もあって。社会人になっても、この気分から抜け出せていないことに気づく必要はあるかもしれないですね。

白取 人生の取扱説明書みたいなものを手に入れて、日常の中で実践していけば、自分が徐々にステップを上がっているような気になるんでしょう。ただ、単純にマニュアル本を否定したいわけではないんです。逆に、逆境を経験したり、古典を深く読み込んだりして、ニーチェのレベルの精神性まで近づけたら、マニュアル本の重さにも気がつけるかもしれない。

 本屋に行って本を眺めたとき、この本は自分のどこに位置づけられるかが冷静にわかって、それにマッチする本として、確信犯的にマニュアル本を手に入れることができるようになる。実際、そんなふうにしてマニュアル本を読んでいる人もいると思うんですよ。