苦難から逃げると、違う形でやってくる

苦難とは、神様からの贈り物だ、<br />と思えるかどうか<br />【(『超訳 ニーチェの言葉』)白取春彦×ジョン・キム】(前編)

キム 『超訳 ニーチェの言葉II』の中に、苦難というのは、神様からの贈り物だ、というニュアンスの表現がありました。これも、『媚びない人生』で伝えたかったメッセージなんです。苦難を悲しみとしてだけ捉えたり、苦悩の源泉として捉えるのではなく、この苦難には何かの意味があり、それを乗り越えることによって、今以上の強い自分というものを作ることができるという、自分の次なる成長の糧として受け取る。そうすると、その人の人生というのは、まったく違って見えてくると思っているんです。

白取 どんな仕事でも、何か問題なり、苦難なりが出てくるものですよね。それを超えて初めて仕事は完成するし、やり遂げることができる。苦難というのは、障害物競走の障害だと思えば、面白くなりますよね。原稿を書く場合だって、必ず問題が出てきますから。そうすると、「今回はこれが問題だ」と認識できる。逆に言えば、それを超えればできるんだ、とわかるわけですからね。

キム 苦難から逃げてはいけないですね。

白取 逃げるとまずいと僕は思いますね。逃げても、違う形で苦難や痛みはやってきますから。実はどうして『超訳 ニーチェの言葉』を書いたのかというと、苦難の中でニーチェを再発見したから。新しい意味で発見したからなんですよ。当時、僕は親の介護を8カ月やっていたんです。介護は本当に大変でした。体重は8キロ減りました。

 朝から晩まで3食の食事を作るだけでも大変でした。でも、そんなものじゃない。廊下とかに、おしっこやウンチとかしょっちゅう垂れていくわけです。朝から晩まで、奴隷のような日々でした。もちろんヘルパーさんにも来ていただきましたが、ずっといてもらえるわけではない。朝晩1時間だけでも本当に助かりましたが、それ以外は自分でやらなければいけない。

 有料老人ホームは、順番待ちで入れてもらえなかったんです。待機している人が大勢いる。ようやく入れたのが、8カ月後なんです。この8カ月がしんどかった。その間の2カ月で、『超訳 ニーチェの言葉』を書いたんです。

 最初の頃は、どうして自分がこんな目に、と思いました。軽い鬱にもなりました。胃をやられて入院もしました。ところが、途中から、きれいな青空が見えるような、まったく違う精神状態が訪れたんです。どんなことでも、やることが嫌でも何でもなくなった。そういう段階になると、物事の見方が変わるんです。

キム 僕は、いずれ死ぬんだ、その間の短い人生だ、と強く真剣に本当に捉えることができたとき、そういう瞬間が訪れる気がします。自分の身の回りに起きることに対する意味を、自分で見出せるようになる。それまでは、外から意味を見出そうとするんです。何も与えてもらえない、と。でも、それは自分で捉える能力がなかった、ということなんですよね。意味を見出せるようになると、自分の身の回りで起きることや出会うものが、すべて自分で解釈できるようになる。それを、次なるエネルギーに変えていくことができる。

 風の向きがどうなのか、というよりは、それに合わせて帆を操ることができるようになる、とでも言えばいいでしょうか。そうすることによって、自分が進む道にうまく導かれていく。使命や権限は、自分の中にあるんだということに気づけるんだと思うんです。