歴史に名を残すこと

 科挙で選抜され、政治で活躍していた人びとが死ぬと、故郷で子孫によって祀られ、先祖の列に加わる。政府とは関係がない。その代わり、政治家に名誉を与えるのは、歴史である。歴史に名を残すことは、政治に関わる人びとにとって最高の栄誉である。人生の目的、と言ってもよい。

 歴史書は、倒れた前の王朝のことを、つぎの王朝の知識人が、調べて書くのが慣例だ。王朝を越えて、バトンが受け継がれる。それには、あとの王朝の知識人に対する、信頼がなければならない。いまの王朝を生きる知識人と、あとの王朝を生きる知識人が、同じ価値観をそなえているからそれができる。王朝が交替しているからむしろ、権力や利害のしがらみなしに、公正で客観的な判断が期待できる。義を貫き非業の死を遂げた者も、歴史に記され、歴史書のなかに永遠の命をえることになる。

 歴史は、ローカルな社会や血縁集団とは違う、国家レヴェルの栄誉を記す。知識人(行政職員)はその役目を終えたあと、いかに生きいかに死んだかの人生まるごとが、評価の対象になる。志ある人びとは、自分がどう歴史に書き留められるかを意識している。

 歴史は、現実政治を記述しつつも、現実政治に対してメタレヴェルにある。歴史に登場する人物は、すでに死んだ人びとばかりだ。しかし、歴史に描かれるのは、生きて行動していた当時の彼らである。その意味で、歴史にも死者のための場所はない。ときに死を覚悟し、それぞれの死を迎えながらも、歴史のなかで、彼らは生きている。

 どういうことか。歴史は、過去についての物語、死者たちの物語である。が、それをいま生きている後世の者たちが、記憶し理解し、評価することである。生きている者たちがいなければ、歴史はない。歴史を気にするとは、自分が、後世の人びとにどう見えるかを気にする、ということだ。

 後世の人びとは、価値観(儒学)を共有する、言わば仲間。その彼らが、死んだあとの自分をどう見るか(だけ)を気にして、自分の死それ自体から目を背けるという態度なのだ。

(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)