倉田主税・日立製作所社長/1956年10月2日号

 茨城県にあった日立鉱山を拠点とする久原鉱業所が、変圧器、電動機、発電機、電気機関車といった鉱山関連の機械の修理を目的に設立したのが日立製作所だ。日立鉱山で工作課長を務めていた電気技師の小平浪平が、1910年に創業した。もっとも小平は、修理にとどまらず、設備の国産化に乗り出す。そのために東京帝国大学(現東京大学)電気工学科の学生を続々と引き入れ、開発力を高めていく。さらに鉱業という枠からも飛び出し、総合電機メーカーへと歩みを進めていった。

 第2次世界大戦中は軍需工場の役割も果たしていたため、戦後、小平をはじめ日立の経営陣は公職追放となる。このとき社長に就いたのが2代目社長の倉田主税(ちから。1886年3月1日~1969年12月25日)である。倉田も小平と同様、技術力の重要性を強く訴えた。とりわけ戦後復興には科学技術の向上が欠かせないと痛感していたのだろう。

 日立が創業の地である茨城県日立市にある日立研究所とは別に、東京都国分寺市に中央研究所を構えたのは、小平時代の42年のこと。工場直結の日立研究所と違い、10年先、20年先を見据えた種まきを行う“温床”としての機能を期待されていた。

「ダイヤモンド」1956年10月2日号に掲載された倉田のインタビューのテーマは、「企業と研究費」である。米国に追い付け追い越せを旗印に日本企業がまい進する中、技術研究への投資が決め手になるというわけだ。

 記事中、倉田は理工科系の人材が足りないと嘆いている。「根本は学校教育の理工科系の者を75%くらいにして、法文系を25%くらいにしたらいいと思いますね。私の方など全部理工科系でもよいというくらいです。やっぱり人数が多くなければ、優秀な者は集まりませんから……」。

 倉田の「真に創意ある国産技術を確立するためには、国全体で先導的・基盤的研究に取り組むべきである」との思いは強く、会長に退いた後の60年には日本科学技術振興財団の初代会長に就任。また、若い研究者を育て、科学技術を振興することを目的に、69年に会長を辞める際には自らの退職慰労金から2億円(現在の価値で約40億円)を出資して「国産技術振興会」を設立した。

 残念ながら倉田はその年の末に、志を全うする前に亡くなった。しかし、国産技術振興会は後に倉田記念日立科学技術財団と改称され、現在は日立財団に統合、「倉田奨励金」として引き継がれている。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

「国産でいこう」が創業の精神
研究費は売り上げの3%を目標

――今までとかく調査研究といった方面は、どこの企業でも継子扱いと言うと語弊がありますが、あまり重要視しないきらいがあり、研究費なども株主に説明する際には、苦労するといわれ、なるべく少なくしたいという傾向があった。ところが、最近は新しく資本を集めるといった場合は、研究費をどれだけ使ったということを出す方が、その企業の成長性を示すということで、人気があるといわれている。米国では、この頃はなるべくこれを大きくする傾向になる、ということですね。

 日本でも、そういう点に目を付けるようになってきました。成長株のよってきたるところはどこか、ということになると、技術研究の面に、日頃どれだけ努力しているか、ということになるのですね。

――その点、日立製作所は非常に調査研究の方面に力を入れておられると伺っているのですが……。最近の米国の雑誌を見ると総売り上げの一定額を研究費に使っている。交通運輸会社の1%から、大きな電機事業や化学工業会社は6%ですね。日立などもわが国ではつとに、やっておられることでしょうが、その現状とご方針をひとつお話しください。

1956年10月2日号
1956年10月2日号より

 研究の面では、私の会社では創業の精神が、国産でいこうという考えでしたので、そのためには研究に力を注いで、試作し、十分得心のいくものを市場に出すということでやっているわけです。

 その後次第に会社の規模も大きくなってきましたので、初めあった各工場に付属する、ささやかな研究所だけではいかんということで、日立に大きな研究所をつくった。その後さらに、安来、亀有につくったのですが、これでも満足できなくなって、東京の国分寺に数万坪の敷地を求めて、中央研究所をつくり、根本的研究から始めるということになったわけです。

――それはいつごろですか。

 1942(昭和17)年です。ところが終戦まで一生懸命研究に没頭していた研究者も、終戦でテーマもなくなり、目先真っ暗で、何をやっていいか分からない。そこで彼らが戦後まず研究したものは何かというと、労働問題だった。だから当時の労働争議の中心運動者は、研究所の者でした。東芝でも私のところでも研究所の人間が組合の委員長でわれわれと面と向かって、団体交渉をやったものです。

――そういった時代はいつごろまで……。